二宮金次郎像はなぜ学校に広まった?撤去理由と2026年の保存事情を徹底解説

目次
二宮金次郎像はなぜ学校に広まった?撤去理由と2026年の保存事情を徹底解説
二宮金次郎像はなぜ学校に広まった?撤去理由と2026年の保存事情を徹底解説
@ creator • Click to Play Video Inline
🎵 二宮金次郎像はなぜ学校に広まった?撤去理由と2026年の保存事情を徹底解説

小学校の校庭や玄関脇に立ち、薪を背負いながら本を読む少年。かつて日本の学校で当たり前のように見かけた「二宮金次郎像」は、いったいなぜ全国に広まったのでしょうか。そして、学校の統廃合や教育方針の変化によって撤去される一方、座って読書する新しい像や、神社などに移設される像が登場しているのはなぜなのでしょうか。

二宮金次郎のモデルとなった二宮尊徳は、江戸時代後期に約600か村の農村復興に関わった実践家です。像の定番となった「歩きながら読書する姿」は、実は明治時代の伝記の挿絵から広まった表現でした。2026年には、兵庫県の動物園から神社への移設や、山口県周南市による像の売却など、新たな動きも確認されています。

📌 【この記事の重要ポイントまとめ】

  • 像の由来:歩きながら読書する姿は、1891年刊行の幸田露伴『二宮尊徳翁』の挿絵に登場した。
  • 学校への普及:1924年に愛知県の前芝小学校に最初の像が設置され、昭和初期に卒業生や地域住民の寄贈によって全国へ広がった。
  • 撤去の背景:学校統廃合、老朽化、校地移転、教育方針の変化、安全面への配慮など、理由は複数ある。
  • 戦時中の歴史:銅像の多くは金属供出の対象となり、戦後には石像やコンクリート像などで再建された。
  • 2026年の最新動向:移設による保存や自治体による売却など、像の引き継ぎ方が多様化している。

【人物の実像】二宮金次郎とは何者?二宮尊徳の生涯と功績

二宮 金次郎 像の関連写真・ビジュアル
【画像】二宮 金次郎 像 関連ショット

二宮金次郎像を理解するには、まずモデルとなった人物の生涯を知る必要があります。

二宮金次郎は、後に農政家・思想家として知られるようになる二宮尊徳(にのみやたかのり)の幼名・通称です。1787年(天明7年)7月23日、現在の神奈川県小田原市にあたる相模国栢山村で生まれました。

尊徳は比較的裕福な農家に生まれましたが、幼少期に酒匂川の氾濫によって田畑が荒廃し、父母を相次いで亡くします。16歳ごろには一家離散となり、伯父のもとで暮らすことになりました。

そのような環境でも、農作業の合間に勉強を続け、捨てられていた稲の苗や菜種を空き地に植えて収穫を増やしました。小さな努力を積み重ね、少しずつ土地を買い戻していった経験は、後に尊徳の思想を代表する「積小為大(せきしょういだい)」という考え方につながります。

農村復興を成功させた実践家だった

二宮 金次郎 像の様子・注目ショット
【写真】二宮 金次郎 像 近影・注目カット

青年期に家の再興を成し遂げた尊徳は、その手腕を認められ、小田原藩の家老・服部家の財政再建を任されます。

さらに、生活に苦しむ藩士を支えるため、利子を付けない貸付を行う金融互助制度「五常講」を始めました。個人の努力だけではなく、互いに支え合う仕組みをつくったことも、尊徳の大きな功績です。

1823年(文政6年)には、現在の栃木県真岡市にあたる桜町領へ移住し、荒廃した農村の復興に取り組みます。困難を乗り越えて1831年(天保2年)に事業の第一期を終え、その後も各地の財政再建や農村復興を指導しました。

1842年(天保13年)には幕府に登用され、晩年は日光神領の復興にも取り組みました。1856年(安政3年)10月20日、現在の栃木県日光市にあたる今市で70歳の生涯を閉じています。

尊徳が大切にした報徳思想とは

二宮金次郎像
【資料】二宮 金次郎 像 報道・メディア記録

二宮尊徳の思想や実践方法は「報徳」と呼ばれます。

報徳博物館の解説によると、その根底には、万物にはそれぞれ良い点があり、その価値を生かして社会に役立てるという考え方があります。

尊徳の思想は、勤勉や倹約だけにとどまりません。自然の恵みを生かし、収入と支出のバランスを整え、周囲と協力しながら社会全体を豊かにするという実践的な考え方でした。

報徳思想は尊徳の死後も弟子や後継者によって伝えられ、渋沢栄一、豊田佐吉、松下幸之助など、後世の実業家や経営者にも影響を与えたと報徳博物館は紹介しています。

つまり、金次郎像が象徴しているのは、単に「本を読みながら働く少年」ではありません。自ら学び、工夫し、周囲のために行動するという尊徳の生涯そのものなのです。

【像の由来】薪を背負って読書する姿はいつ生まれた?

二宮金次郎像といえば、背中に薪を背負い、片手に本を持って歩く姿が定番です。しかし、この姿が実際の金次郎の生活をそのまま再現したものだと思っている人は少なくありません。

現在の定番スタイルが広まったきっかけは、明治時代の出版物にありました。

1891年、幸田露伴の伝記の挿絵が原型に

報徳二宮神社の公式説明によると、薪を背負って歩きながら本を読む金次郎の姿が初めて登場したのは、1891年(明治24年)に出版された幸田露伴の『二宮尊徳翁』の挿絵です。

幸田露伴は明治時代を代表する文学者です。少年時代の金次郎の勤労と勉学を、子どもにも分かりやすく伝えるため、薪を運ぶ姿と本を読む姿を一つの図像にまとめたと考えられています。

この挿絵が、後の金次郎像の基本的なデザインになりました。

日本で最初の小学校の金次郎像は1924年

春日井市の郷土誌や国立国会図書館のレファレンス協同データベースによると、日本で最初に小学校へ設置された金次郎像は、1924年(大正13年)の愛知県豊橋市立前芝小学校のものです。

当時の像は銅像ではなく、セメント製でした。高さは約1メートルで、野良着とわらじを身につけ、左肩に魚を入れるかごを背負い、右手に本を持つ姿だったと記録されています。

その後、銅像の製作も始まり、1928年(昭和3年)には小田原の報徳二宮神社に、昭和天皇の即位御大礼記念としてブロンズ製の少年像が寄進されました。

寄進者は神戸の中村直吉氏、製作者は三代目慶寺丹長です。この像は人物部分の高さがちょうど1メートルで、当時のメートル法普及という時代背景も反映していました。

報徳二宮神社によれば、この像と同じ型のものは全国の小学校向けに約1000体制作されました。しかし、その多くは戦時中の金属供出によって失われ、現在同神社に残る像は貴重な存在となっています。

【歴史と経緯】なぜ小学校に広まった?昭和初期の普及と戦時中の金属供出

金次郎像が学校に広まった理由は、尊徳の生涯が当時の教育で重視された勤勉、倹約、学習、社会への貢献という価値観と結び付いていたためです。

特に昭和初期は経済不況が深刻化し、農山村の自立や生活改善が社会的な課題となっていました。幼少期の貧困を努力で乗り越え、農村を立て直した尊徳は、子どもたちに示す理想的人物として扱われるようになりました。

学校への設置は地域住民や卒業生の寄贈が中心

注目したいのは、金次郎像が全国の学校に一律に配布されたわけではないという点です。

春日井市の文化財保護審議会委員による郷土調査では、学校の金次郎像は卒業生有志や地域住民などから寄贈されたものが多く、建立のきっかけも、卒業記念、初老記念、村会議員の任期満了、叙勲受章、戦勝記念などさまざまだったと紹介されています。

つまり、金次郎像は学校教育の象徴であると同時に、地域社会が子どもたちの成長を願って贈った記念碑でもありました。

二宮金次郎像の歴史を年代別に整理

人物の生涯と像の普及、戦争による変化を時系列で整理すると、次のようになります。

年代関係者・出来事金次郎像との関係
1787年二宮尊徳誕生後の金次郎像のモデルとなる
1823~1831年桜町領の復興事業農村復興の実績によって尊徳の名声が高まる
1856年二宮尊徳死去報徳思想が弟子や後継者に引き継がれる
1891年幸田露伴『二宮尊徳翁』刊行薪を背負い本を読む少年の挿絵が登場
1924年豊橋市立前芝小学校国内初の小学校設置例とされる
1928年報徳二宮神社・中村直吉氏代表的なブロンズ像が寄進される
1933~1940年全国の学校・地域住民昭和初期の建立が盛んになる。愛知県では1933年が建立のピーク
1940年代政府による金属回収銅像などが金属供出の対象になる
戦後学校・地域の寄贈者石像やコンクリート像などで再建される
2026年自治体・地域団体移設保存や売却など、新たな継承の形が登場

戦時中、二宮金次郎像はなぜ撤去された?

戦争が激しくなると、日本では武器や軍需物資に使う金属資源が不足しました。そのため、寺院の梵鐘や銅像など、各地の金属製品が回収されるようになります。

学校の金次郎像も例外ではありません。特に銅や青銅で作られた像は供出の対象となり、多くの学校から姿を消しました。

春日井市の郷土誌には、昭和19年(1944年)に市内の学校で銅像が供出された事例が複数記録されています。

また、報徳二宮神社に残るブロンズ像も、同型の像が約1000体制作されたものの、戦時中の供出によって失われたと説明されています。

その後、学校によっては台座だけを残したり、戦後にコンクリート製や石製の像を新しく設置したりしました。現在見られる金次郎像の中には、戦前から同じ場所に立ち続けているものだけでなく、戦後に再建されたものも少なくありません。

札幌市南区の簾舞小学校にある像も、その歴史を伝える例です。1937年に建立された当初の銅像は戦時中に供出され、現在の陶製の像が再建されました。

【歩きながら読書の真相】実際は暗唱していた?座像との違いも比較

金次郎像をめぐる最も有名な疑問が、「二宮尊徳は本当に薪を背負いながら本を読んでいたのか」という問題です。

実は、尊徳が像とまったく同じ姿で歩きながら読書していたことを示す確かな根拠はありません。

原典の記述は「読書」ではなく「暗唱」を示している

2016年にJ-CASTニュースが尊徳記念館へ取材した際、原典とされる『報徳記』では、該当する場面に「誦(そらんじる)」という表現が使われていると説明されました。

この表現から読み取れるのは、薪を背負って歩きながら、学んだ内容を暗唱していたという姿です。

つまり、金次郎は歩きながら本のページをめくっていたというより、仕事の時間も学びに生かしていた人物として伝えられていたのです。

明治24年の幸田露伴の挿絵が、手に本を持つ現在のイメージを定着させました。勤労と勉学を一目で理解できるようにした表現が、後世では実際の行動をそのまま描いたものとして受け取られるようになったわけです。

立像と座像は何が違う?

金次郎像には、薪を背負って歩く立像だけでなく、腰を下ろして本を読む座像、草鞋を手に持つ像、鍬をついて休む像など、さまざまなタイプがあります。

それぞれの特徴は次のとおりです。

立像・負薪読書像

  • 薪を背負い、手に本を持つ定番の姿。
  • 勤労と勉学を同時に象徴する。
  • 昭和初期に全国の学校へ広まった代表的なデザイン。

座像・読書像

  • 切り株などに腰掛けて本を読む姿。
  • 歩きながら読書するように見える問題を避けられる。
  • 仕事の合間に学ぶという意味を残しやすい。

草鞋・鍬を持つ像

  • 読書以外の生活場面を表現する。
  • 勤労、工夫、生活改善などを伝える。
  • 地域独自の教育観や報徳思想を反映したものもある。

座像への変更は歩きスマホ問題だけが理由ではない

座像が話題になった事例として知られるのが、2016年3月1日に栃木県日光市の南原小学校に設置された少年時代の金次郎の座像です。

寄贈した地元団体は、歩きスマホや「ながら行動」が問題視される時代背景を考慮し、歩きながら本を読む姿より座像のほうが学校に適していると判断したとJ-CASTニュースに説明しています。

一方、座像は2016年に初めて登場したわけではありません。J-CASTニュースが紹介した尊徳記念館の説明によれば、戦後には交通安全への配慮などから、座って本を読むタイプや草鞋を持つタイプも作られていました。

さらに、小田原市立豊川小学校の公式紹介では、1989年の開校記念に座像が設置された経緯が説明されています。寄贈者が尊徳記念館の資料で座っている金次郎の絵を見つけ、学校関係者と相談して座像を選んだというものです。

したがって、座像への変更は歩きスマホ対策だけで説明できません。尊徳の姿をどう表現し、子どもたちに何を伝えるかという教育上の工夫でもあるのです。

【撤去理由と現在】二宮金次郎像はどこへ?2026年の最新事例

学校から金次郎像が姿を消している背景には、複数の事情があります。

「戦前の教育の象徴だから撤去された」「歩きスマホを連想させるから全国で撤去されている」といった説明だけでは、実際の状況を正しく捉えられません。

二宮金次郎像が撤去される主な理由

1. 学校の統廃合や校舎の建て替え

少子化などによる学校の統廃合、校舎の解体、校地の移転に伴い、像を撤去するケースです。学校そのものが閉校すると、像の管理主体や設置場所がなくなることもあります。

2. 老朽化や破損

屋外に長期間設置された像は、風雨や地震などによって劣化します。石像のひび割れ、コンクリートの欠損、金属部分の腐食などが進めば、安全上の問題も生じます。

3. 教育方針や価値観の変化

戦前の修身教育との関係から、金次郎像をどのように評価するかについては議論があります。また、幼少期の労働を美化するように見えることへの違和感や、現代の学校教育との整合性を考える意見もあります。

4. 歩きながら本を読む姿への安全面の懸念

2012年には滋賀県大津市の教育委員会に、像のように歩きながら本を読むのは危険だという保護者の意見が寄せられたと報じられています。

ただし、すべての学校で安全上の問題が発生したわけではありません。像のポーズに対する懸念と、実際の撤去決定は区別して考える必要があります。

撤去が進んでも像がすべて失われたわけではない

愛知県教育委員会が2008年7月に実施した学校調査では、名古屋市を除く県内で、小学校390校(54%)、中学校26校(9%)の計416校に金次郎像が確認されました。

1990年の調査では小学校409校、中学校29校の計438校だったため、18年間で確認数は22校の減少にとどまっています。

春日井市の郷土誌は、撤去された像の多くについて、校舎や校地の移転、老朽化が理由だったと説明しています。

この調査は愛知県のものであり、全国の学校にそのまま当てはめることはできません。しかし、金次郎像が一斉に姿を消したというイメージとは異なる実態が見えてきます。

2026年の注目事例① 王子動物園の像が神社へ移設

2026年6月4日付の神戸新聞NEXTは、兵庫県神戸市灘区の王子動物園で半世紀以上にわたって親しまれてきた二宮金次郎像が、同じ灘区内の徳井神社に移設されたと報じました。

背景にあったのは、動物園を含む王子公園の再整備です。

像を神社の境内に置きたいという宮司の希望を知った地域ボランティアが仲介し、新しい設置場所が決まりました。

これは撤去を単純な廃棄で終わらせず、地域の歴史を知る人たちの協力によって保存につなげた事例です。

2026年の注目事例② 周南市の金次郎像が21万9000円で落札

2026年10月22日、山口県周南市は、旧菊川小学校中野分校跡地に残されていた二宮金次郎像の見積合わせ結果を公表しました。

対象となったのは、1953年(昭和28年)ごろに設置されたとみられる高さ約70センチの像です。外観からは銅製と考えられていますが、設置当時の資料がなく、素材や重量は不明とされています。

最低見積価格は税別1万円でしたが、落札者は金井金属工業株式会社で、落札金額は21万9000円でした。

この像は廃校跡地に長年残されていたもので、市が今後活用する予定がなかったことから、財産の有効活用を目的として売却されました。

注目すべきなのは、売却後の用途について特別な制限が設けられていないことです。新しい所有者がどのように活用するかによって、像の今後が変わる可能性があります。

なお、売却価格は特定の像に対する入札結果であり、金次郎像全体の市場価格を示すものではありません。

2026年の2つの事例は、同じ撤去・再整備という状況でも、神社への移設保存と自治体による売却という異なる引き継ぎ方があることを示しています。

【素材・見分け方・値段】二宮金次郎像の材質と購入・撤去費用

古い学校の金次郎像を調べる際には、材質、制作年代、寄贈者、台座の銘文などを確認すると、歴史的な価値を把握しやすくなります。

金次郎像の代表的な素材

金次郎像には、石、銅・青銅、コンクリート、陶器などが使用されています。

春日井市の郷土誌に掲載された愛知県内の材質集計では、石像322体(79%)、銅像47体(12%)、コンクリート像30体(7%)、陶製などその他7体という内訳が紹介されています。

これは愛知県内の調査に基づく数字であり、全国の像の材質比率ではありません。それでも、一般的なイメージである銅像だけでなく、石像が多く存在することが分かります。

素材を見分けるときのポイント

石像:表面に石材特有の粒子や自然な模様が見られます。重量が大きく、台座と一体になっているものもあります。

銅・青銅像:金属特有の光沢や経年による緑青、黒ずみが見られることがあります。古い像では塗装や腐食によって本来の色が分かりにくくなっている場合もあります。

コンクリート像:表面に細かな気泡やざらつきが見られ、経年によってひび割れや欠損が生じることがあります。

陶製像:焼き物特有の表面や釉薬、彩色などが特徴です。札幌市南区の簾舞小学校の像は、戦時中に銅像を供出した後に再建された陶製の例として知られています。

ただし、見た目だけで材質を断定することはできません。内部構造や補修部分が異なる場合もあるため、銘板、設置記録、学校の周年誌、自治体の資料を合わせて確認するのが確実です。

二宮金次郎像の値段はいくら?実際の売却事例

金次郎像には、全国共通の定価や統一された中古市場価格があるわけではありません。大きさ、素材、作者、制作年代、保存状態、歴史的背景などによって評価が変わります。

近年の自治体による売却事例を見ると、価格の違いが分かります。

2024年・兵庫県三木市の事例

旧東吉川小学校に63年間設置されていた高さ約1メートル、重さ23キロの青銅製像が一般競争入札にかけられました。最低売却価格は税別1万円でしたが、落札額は55万1380円となりました。

落札したのは、二宮金次郎の思想を研究していた株式会社サラトの会長・福田勊さんです。像は廃棄を免れ、会社に設置して教えを伝える予定と報じられました。

2026年・山口県周南市の事例

旧菊川小学校中野分校跡地の像は、最低見積価格が税別1万円に設定され、最終的に21万9000円で落札されました。

2つの事例を比較すると、最低価格が同じ1万円でも、最終的な落札額は大きく異なります。

新しく設置する場合や撤去する場合の費用

新しい像を制作・設置する場合は、像本体の制作費だけでなく、次の費用も考える必要があります。

  • 石材や金属など素材ごとの制作費
  • 彫刻家や製造業者への制作依頼費
  • 台座や基礎工事の費用
  • 現地までの輸送費
  • クレーンなどを使用する設置作業費
  • 既存像の撤去、補修、移設費用

これらは像の大きさや重量、設置環境によって変わります。全国共通の標準価格はなく、実際には製作会社や石材店などへの個別見積もりが必要です。

また、周南市の2026年の売却条件では、購入者が撤去・搬出を行い、作業によって周辺の市有財産を損傷した場合には原状回復することが求められていました。

そのため、中古像を購入する場合は落札価格だけで判断せず、運搬、撤去、設置、補修まで含めた総費用を考える必要があります。

【評判と実態】二宮金次郎像は時代遅れ?残すべきか撤去すべきか

金次郎像に対する評価は一様ではありません。

勤勉や努力の象徴として残すべきだという意見がある一方、戦前の教育を連想させることや、歩きながら読書する姿への違和感を理由に、撤去やデザイン変更を支持する意見もあります。

撤去に反対する人が重視するもの

金次郎像を残したい人が評価するのは、少年時代の苦労だけではありません。

家族の困窮を経験しながら自立を果たし、農村復興や生活困窮者の支援に取り組んだ尊徳の生涯を、学校の歴史として伝えられる点に価値があります。

また、卒業生や地域住民が寄贈した像には、地域の記憶や学校の沿革が刻まれています。像を撤去することは、単に古い設備を片付けるだけではなく、地域の歴史資料を失うことにつながる可能性もあります。

撤去や変更を支持する人が重視するもの

一方で、学校には現在の教育方針や安全基準があります。

子どもに対して、働きながら勉強する姿を理想として一方的に示すことへの疑問や、歩きながら本を読む姿が安全教育と矛盾するのではないかという指摘は、学校が向き合うべき課題です。

ただし、金次郎像そのものが歩き読書を推奨しているわけではありません。実際の尊徳の行動を正しく説明すれば、勤勉と安全を両立させた教育素材として活用する余地があります。

保存・撤去を判断するときの基準

像を残すかどうかを考える際には、次の3点を確認すると判断しやすくなります。

  • 歴史的価値:建立年代、寄贈者、作者、戦時中の供出や再建の記録が残っているか。
  • 安全性:劣化や転倒の危険がないか。修復や移設によって安全を確保できるか。
  • 教育的価値:尊徳の生涯や報徳思想を伝える教材として活用できるか。

歴史的価値が高く、安全に保存できるなら、校内や地域施設への移設も選択肢になります。反対に、著しく劣化していて修復が難しい場合には、写真や記録、銘文を保存して歴史を伝える方法も考えられます。

大切なのは、古いから残す、時代に合わないから撤去するという二者択一にしないことです。

【二宮金次郎像に関するよくある質問(FAQ)】

Q1:二宮金次郎像はなぜ小学校に設置されたのですか?
A1:二宮尊徳が貧困や困難を乗り越え、勤勉に学びながら農村復興に取り組んだ人物だったためです。昭和初期には児童の教育にふさわしい理想像として評価され、卒業生や地域住民の寄贈によって学校に広まりました。

Q2:二宮金次郎は本当に薪を背負って歩きながら本を読んでいたのですか?
A2:像のように歩きながら本を読んでいたことを示す確かな根拠はありません。『報徳記』の該当箇所には「誦」という表現があり、薪を運びながら学んだ内容を暗唱していたという解釈が紹介されています。現在の読書する姿は、1891年の幸田露伴の伝記の挿絵が原型です。

Q3:二宮金次郎像は現在も学校に残っていますか?
A3:残っています。ただし、学校の統廃合や建て替え、老朽化などによって撤去・移設された像もあります。2026年には王子動物園から徳井神社への移設や、周南市の旧小学校跡地に残る像の売却などが確認されています。全国の現存数を示す最新の統一調査は確認できません。

Q4:二宮金次郎像の値段はいくらですか?
A4:サイズ、素材、作者、保存状態などによって異なります。2024年の兵庫県三木市では55万1380円、2026年の山口県周南市では21万9000円で自治体の売却案件が落札されました。これらは個別の入札結果であり、新品の制作費や一般的な中古価格を示すものではありません。

Q5:二宮金次郎像の座像はなぜ増えたのですか?
A5:歩きながら読書する姿への安全面の懸念や、現代の教育方針への配慮などが理由として挙げられます。ただし、座像は歩きスマホ問題が話題になる以前から存在しており、尊徳の別の姿を表現する目的で設置された例もあります。

まとめ:【プロの結論】二宮金次郎像は撤去だけでなく継承の時代へ

二宮金次郎像は、単なる勤勉のシンボルではありません。江戸時代後期に農村復興を実践した二宮尊徳の思想を、子どもたちにも伝わる形にした近代日本の教育文化の一つです。

その歴史を振り返ると、1891年の幸田露伴の挿絵、1924年の小学校への初設置、昭和初期の全国的な普及、戦時中の金属供出、戦後の再建という大きな変化がありました。

そして2026年には、王子動物園から徳井神社への移設や、周南市の像の売却など、学校以外の場所で歴史を引き継ぐ動きが見られます。

【プロの結論】金次郎像の本当の価値は、薪を背負って本を読むポーズだけにあるのではありません。尊徳が実践した「積小為大」「勤勉」「倹約」「推譲」という考え方を、現代の生活や地域社会にどう生かすかにあります。

像を保存する場合も、撤去する場合も、その背景にある歴史を記録し、次の世代に伝えることが大切です。座像への変更や地域施設への移設も、尊徳の思想を現代に引き継ぐための一つの方法といえるでしょう。

今後、学校や自治体が金次郎像の扱いを検討する際には、建立の経緯や地域の思いを調べ、安全性と教育的価値を踏まえた判断が求められます。かつて校庭に立っていた少年の像は、姿を変えながらも、日本の教育と地域の歴史を考える手がかりであり続けています。

主な参照資料: 報徳博物館、小田原市、報徳二宮神社、春日井市公式郷土誌、札幌市、J-CASTニュース、神戸新聞NEXT、関西テレビ、周南市公式発表。

(出典: 二宮 金次郎 像(Yahoo!ニュース))