目黒競馬場の跡地はどこ?2026年の現在地と歴史、府中移転の理由を徹底解説
東京都目黒区に、かつて日本競馬の歴史を大きく変えた競馬場が存在したことをご存じだろうか。現在の住宅街にあたる下目黒四丁目・五丁目・六丁目周辺には、明治40年(1907年)に開設された目黒競馬場があった。ここは1932年(昭和7年)に第1回日本ダービーが開催された、日本競馬史にとって特別な場所でもある。
目黒競馬場は1933年(昭和8年)に府中へ移転し、現在の東京競馬場へと歴史をつないだ。2026年現在、跡地には住宅や学校が建ち並ぶが、元競馬場の碑やトウルヌソル像、競馬場の外周を思わせる湾曲した道路、そして「元競馬場前」というバス停名に、その記憶が残っている。目黒区とJRAの公式資料を手掛かりに、誕生から移転、現在の街並み、目黒記念に受け継がれた名称の由来までを詳しくたどる。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 場所:目黒競馬場の跡地は東京都目黒区下目黒四丁目・五丁目・六丁目付近。現在は住宅街や学校になっている。
- 歴史:1907年に開設され、1932年の第1回日本ダービーではワカタカが優勝。1933年に府中へ移転した。
- 現在:下目黒五丁目1番11号に元競馬場の碑(トウルヌソル像)があり、外周道路や元競馬場前のバス停にも面影が残る。
- 競馬とのつながり:1932年に創設された目黒記念が、競馬場の名前を現在まで伝えている。
- 2026年最新:第140回目黒記念は5月31日に東京競馬場で開催され、ファイアンクランツが優勝した。
【場所を先に確認】目黒競馬場跡地は現在の下目黒四丁目・五丁目・六丁目
目黒競馬場があった場所は、東京都目黒区の下目黒四丁目・五丁目・六丁目周辺である。目黒消防署の裏手一帯に広がる住宅地が、かつての競馬場の敷地にあたる。
目黒区公式サイトの「目黒のみち 目黒競馬場外周の道」では、下目黒四丁目から六丁目にかけての住宅街を、かつての目黒競馬場の跡地として紹介している。区の文化財案内でも、下目黒四丁目・五丁目付近に競馬場が存在したことが説明されている。
現在は住宅街と学校が広がる場所
かつての競馬場の敷地には、現在、住宅や区立不動小学校などが建っている。競馬場のスタンドや馬場、観客席といった施設がそのまま残されているわけではない。
そのため、初めて訪れる人は、一般的な競馬場跡地のように広大な敷地や遺構が保存されていると想像すると、少し驚くかもしれない。目黒競馬場の歴史を感じられるのは、記念碑や道路の形、地名、バス停など、街の中に溶け込んだ痕跡である。
目黒競馬場跡の代表的な所在地
現地散策の目印になるのが、目黒通り沿いに設置された元競馬場の碑(トウルヌソル像)だ。目黒区が公表している所在地は、東京都目黒区下目黒五丁目1番11号である。
競馬場全体の跡地はこの一点だけではなく、下目黒四丁目から六丁目にかけての広い範囲に及ぶ。記念碑を見学したあと、周辺の住宅街へ足を延ばすと、かつての競馬場の外周に沿った道筋を確認できる。
【明治40年に開設】目黒競馬場の歴史と当時のにぎわい
目黒競馬場が誕生したのは明治40年(1907年)。当時の目黒は、現在のような都市化した住宅地ではなく、農業が盛んな地域だった。
目黒区の歴史資料によると、日本競馬会によって競馬場が開設され、最初の競馬は1907年12月に4日間にわたって開催された。馬の改良や増産を奨励する国の政策とも関係が深く、競馬は娯楽であると同時に、馬産の発展を担う事業でもあった。
馬券禁止という苦境を乗り越えた目黒競馬場
開設から間もない明治41年(1908年)、政府によって馬券の発売が禁止された。競馬場にとって、観客の関心を維持するうえで大きな打撃となった。
目黒競馬場も例外ではない。目黒区の歴史資料には、馬券発売が禁止された時期の開催で、4日間の入場者が500人にも満たなかったという記録が紹介されている。
その後、東京周辺の競馬団体の統合が進み、明治43年(1910年)には東京競馬倶楽部が設立された。目黒競馬場は、その本拠地として引き続き使用されることになる。
馬券の代わりに登場したのが、勝馬を予想して当たった人に商品券などを贈る仕組みだった。大正3年(1914年)には、百貨店の商品券を景品とする催しが人気を集め、目黒区の資料によると、1万2,000人を超える観客を呼び込んだという。
大正12年(1923年)に競馬法が公布され、馬券の発売が正式に認められると、競馬人気は再び高まった。目黒競馬場には多くの観客が集まり、最盛期には目黒駅から長い行列ができるほどだったと目黒区は伝えている。
競馬以外の催しも開催された
目黒競馬場は、純粋な競馬施設にとどまらなかった。目黒区の「歴史を訪ねて 目黒競馬場」には、明治44年(1911年)に米国の飛行家マースが模範飛行を試みたことや、大正4年(1915年)に自動車レースが開催されたことが記録されている。
当時の広大な敷地は、競馬以外の催しにも活用できる貴重な場所だった。現在の目黒の住宅街からは想像しにくいが、かつてこの地域は、東京の新しい娯楽やスポーツ文化が集まる場所の一つだったのである。
【1932年の第1回日本ダービー】ワカタカが勝利した歴史的舞台
目黒競馬場の名前を日本全国に残した最大の出来事が、1932年(昭和7年)4月24日に開催された第1回日本ダービーである。
当時の正式名称は「東京優駿大競走」。イギリスのダービーを手本に、3歳馬の頂点を決める大競走として創設された。JRAの日本ダービー公式資料によると、第1回は目黒の東京競馬場で、芝ではなく当時の競馬場の馬場を舞台に、距離2,400メートルで行われた歴史的なレースだった。
初代ダービー馬はワカタカ
記念すべき初代優勝馬となったのは、ワカタカ号である。
目黒区の歴史資料によると、第1回日本ダービーには19頭が出走。当日は雨模様だったが、ワカタカが栄冠を手にした。東京中央放送局、現在のNHKによるラジオ実況も行われ、全国にレースの模様が伝えられた。
競馬場には、現代とは異なる時代の観戦文化もあった。当時の目黒区資料によれば、馬券は1枚20円で、1レースにつき1人1枚しか購入できなかった。平均サラリーが60円から70円ほどとされる時代であり、競馬観戦は決して気軽な娯楽ではなかった。
また、1等席は5円、2等席は2円。1等席では羽織・袴または洋服の着用が求められ、競馬場の近くには貸衣裳店まであったという。競馬が当時の社交文化や都市の娯楽と結び付いていたことがうかがえる。
トウルヌソルはワカタカの父
現地にある馬の銅像と第1回日本ダービーを結び付ける重要な存在が、トウルヌソルである。
目黒区の公式広報資料では、トウルヌソルは第1回日本ダービー優勝馬ワカタカの父にあたる種牡馬として紹介されている。つまり、記念碑の馬はワカタカ本人ではなく、初代ダービー馬を送り出した父馬なのだ。
この親子関係を知ってから現地の銅像を見ると、記念碑の意味がより深く理解できる。目黒競馬場は初代ダービー馬が走った場所であるだけでなく、その血統の歴史を伝える場所にもなっている。
【なぜ府中へ移転した?】目黒競馬場が姿を消した本当の理由
目黒競馬場の移転理由として、目黒区の資料が挙げるのは周辺の宅地化や地代の上昇である。しかし、背景を詳しく見ると、土地の問題だけではなく、競馬そのものの発展と施設の拡張限界が重なっていたことが分かる。
競馬場の周辺で宅地化が進行
目黒競馬場は東京近郊という立地の良さを持っていた。その一方で、周辺地域の都市化が進むにつれ、広い土地を必要とする競馬場の運営が難しくなっていった。
一般社団法人東京馬主協会の沿革資料によると、目黒競馬場は敷地の8割以上を借地で賄っていた。つまり、競馬場が所有する土地だけで運営されていたわけではない。
大正12年(1923年)の関東大震災後、東京郊外の開発が急速に進み、周辺の地価や地代も上昇した。土地を借り続ける経営上の負担は大きくなり、地元関係者からも移転を求める声が強まった。
競馬人気の上昇に既存施設が対応できなくなった
もう一つの大きな理由は、競馬人気の高まりだった。
大正12年の競馬法施行によって馬券発売が認められると、競馬は再び多くの人を集めるようになった。観客の増加に対して、従来の目黒競馬場では施設の拡張や競走環境の改善に限界があった。
東京馬主協会の資料では、競走馬が能力を十分に発揮できる広大な馬場を確保し、新たな競馬場を建設する機運が高まった経緯が説明されている。
府中が新しい競馬場の建設地に選ばれた理由
移転準備委員会は昭和2年(1927年)4月に正式発足し、候補地の調査を進めた。昭和3年(1928年)12月には、東京府下北多摩郡府中町が移転先として内定した。
府中が選ばれた理由には、競馬場に必要な広い土地だけでなく、多摩川水系による豊富な水、良質な青草、地域を挙げた招致活動があった。東京馬主協会の沿革資料では、オーストラリアのウォーウィック競馬場を施設面のモデルとして、新競馬場の建設構想を進めたことも紹介されている。
目黒から府中への歴史的な転換点
目黒競馬場の移転と、日本ダービー、目黒記念の関係を整理すると、次のようになる。
| 時期 | 主体・出来事 | 歴史的な意味 |
|---|---|---|
| 1907年(明治40年) | 日本競馬会が目黒競馬場を開設 | 目黒における近代競馬の始まり |
| 1910年(明治43年) | 東京競馬倶楽部が設立され、目黒を本拠地とする | 東京競馬の中心的な開催地として発展 |
| 1925年(大正14年) | 目黒競馬場で特別競走の前身となる競走を開催 | 後の目黒記念につながる競走の起点 |
| 1927~1928年(昭和2~3年) | 移転準備委員会の発足と府中への移転先決定 | 新競馬場建設計画が具体化 |
| 1932年(昭和7年) | 第1回日本ダービーを開催。ワカタカが優勝 | 目黒競馬場が日本競馬史に残る舞台となる |
| 1933年(昭和8年) | 府中の新競馬場が完成し、11月に開催開始 | 現在の東京競馬場へ歴史を継承 |
| 1983年(昭和58年) | トウルヌソル像を建立 | 第50回日本ダービーを記念し、目黒の歴史を顕彰 |
| 2026年(令和8年) | 第140回目黒記念を東京競馬場で開催 | 目黒の名を冠した競走が現在も継続 |
目黒競馬場での開催は1933年春の第2回日本ダービーまで続いた。その後、府中の新競馬場は1933年11月8日に建設工事が完成し、同月18日に開催を開始。1934年4月22日の第3回日本ダービーから、舞台は現在の東京競馬場へ移った。
このように、目黒競馬場の移転は単なる施設の閉鎖ではない。都市化による土地利用の変化と、日本競馬の規模拡大に対応するための大規模な再編だったのである。
【2026年に現地を歩く】元競馬場の碑・トウルヌソル像とコース跡
目黒競馬場の跡地を訪れるなら、最初に見ておきたいのが元競馬場の碑(トウルヌソル像)だ。
元競馬場の碑は下目黒五丁目1番11号
記念碑の所在地は、東京都目黒区下目黒五丁目1番11号。目黒区の広報資料では、目黒通りの植え込みに設置された馬の銅像として紹介されている。
この像は、競馬場が営業していた時代から残る遺物ではない。第50回日本ダービーを記念して、1983年(昭和58年)に日本中央競馬会(JRA)と大鳥前元競馬場通り商店街振興組合の協力によって建立されたものだ。
つまり、目黒競馬場の歴史を後世に伝えるために設けられた記念碑であり、競馬場が移転してから約50年後に、地域と競馬界が協力して設置した顕彰物である。
トウルヌソル像を見るときの注目ポイント
銅像の馬名はトウルヌソル。日本競馬の歴史に名を残した種牡馬であり、第1回日本ダービーの優勝馬ワカタカの父でもある。
ここで覚えておきたいのは、銅像の馬と初代ダービー馬は別の馬だという点だ。ワカタカが優勝した競馬場の跡地に、その父であるトウルヌソルの像が設けられている。この親子のつながりが、記念碑に独自の歴史的価値を与えている。
競馬場コース跡は住宅街のカーブに残る
現地でもう一つ注目したいのが、競馬場外周に沿って残る道路である。
目黒区公式サイトによると、多摩大学目黒高等学校裏の五差路から大きく半円を描き、その後、区立不動小学校方面へ真っすぐ延びる道路が、かつての競馬場外周の道として紹介されている。
この道路は、住宅街の中にあるにもかかわらず、周囲の道とは異なる大きな弧を描いている。競馬場の輪郭が街の道路構造に引き継がれた例として興味深い。
ただし、現在の道路が競馬場のコースそのものとして保存されているわけではない。残っているのは、主に外周の形を思わせる道筋である。馬が走った芝のコースや観客席が現存するわけではない点は押さえておきたい。
「元競馬場前」というバス停名も歴史の証人
目黒通りには、現在も「元競馬場前」というバス停がある。競馬場がなくなってから90年以上が経過しても、その名称は地域の交通案内に残っている。
目黒区の紹介資料でも、競馬場の外周道路とともに、このバス停名が往時を伝える存在として挙げられている。大規模な建物が消えても、地名や交通の名称が土地の記憶を受け継ぐことを示す例だ。
目黒競馬場跡へのアクセス
現地を訪れる際は、東急バスの「元競馬場前」停留所を目印にすると分かりやすい。目黒観光まちづくり協会も、元競馬場の碑のアクセス方法として東急バス「元競馬場前」下車を案内している。
- 所在地:東京都目黒区下目黒五丁目1番11号(元競馬場の碑)
- 最寄りの目印:目黒通り「元競馬場前」バス停
- バス:目黒駅前方面から東急バスを利用し、元競馬場前で下車
- 周辺散策:下目黒四丁目・五丁目・六丁目の住宅街に残る外周道路を確認
東急バスには複数の系統が乗り入れているため、利用する方向や時間帯に応じて最新の時刻表・乗り場を確認したい。
また、目黒観光まちづくり協会は、不動前駅を出発する「めぐろWALK」のモデルコースも紹介している。目黒不動尊などの歴史スポットと組み合わせて散策すれば、競馬場跡地だけでは分からない地域の歴史にも触れられる。
現地は現在も人々が暮らす住宅街である。道路のカーブや記念碑を見学する際は、交通や周辺住民の生活に配慮して歩きたい。
【目黒記念に残る名前】2026年の最新レースと競馬場のつながり
目黒競馬場の歴史は、競馬場が府中へ移転した1933年で完全に途切れたわけではない。その名前を現在に伝えている代表的な存在が、JRAの重賞競走「目黒記念」だ。
目黒記念は競馬場の名称を後世に伝えるために創設
JRAの公式資料によると、目黒記念の名称は第1回東京優駿大競走、現在の日本ダービーが開催された目黒競馬場に由来する。
実は、目黒記念には前身となる競走があった。大正14年(1925年)秋に目黒競馬場で行われた「各内国産馬、抽せん豪州産馬混合競走」がその起点で、後に「各内国産古馬競走」と改称された。
競馬場の府中移転が決まった際、目黒の名を後世に残す目的で、1932年に「目黒記念」という競走名が採用された。つまり、現在の目黒記念は、かつて目黒に競馬場が存在したことを伝える歴史的な名称でもある。
目黒記念の距離や開催方式はどう変わった?
JRAによると、目黒記念は日本のハンデキャップ競走として最も古い歴史を持つ重賞競走である。
創設当初は目黒競馬場の芝3,400メートルで、春と秋の年2回開催されていた。1933年秋から東京競馬場へ舞台を移し、1950年秋には距離が現在の2,500メートルに定着した。
1984年のグレード制導入でGⅡに格付けされ、秋の競走が廃止されて年1回の開催となった。さらに2006年からは日本ダービー当日の最終レースとして実施されている。
2026年第140回目黒記念の優勝馬はファイアンクランツ
2026年5月31日(日)、東京競馬場で第140回目黒記念(GⅡ)が開催された。
JRAの公式レース結果によると、優勝したのはファイアンクランツ。D.レーン騎手が騎乗し、2分29秒8でゴールした。2着はウィクトルウェルス、3着はダノンシーマだった。
開催条件は芝2,500メートル、4歳以上のオープン競走で、ハンデキャップ戦として実施された。
1932年に目黒の地で名前が生まれた競走が、2026年には第140回を迎え、日本ダービーと同じ日に東京競馬場で行われた。競馬場の所在地は変わっても、目黒という地名が競馬界に残り続けていることを示す出来事である。
【目黒競馬場の歴史で間違えやすいポイント】よくある誤解を整理
目黒競馬場について調べる際には、競馬場の移転年、日本ダービーの開催地、記念碑の馬名などを混同しやすい。特に押さえておきたいのは次の3点だ。
誤解1:日本ダービーは最初から府中で開催されていた?
これは誤りである。第1回の1932年と第2回の1933年は目黒競馬場で開催された。府中の東京競馬場で日本ダービーが行われるようになったのは、1934年の第3回からだ。
誤解2:トウルヌソル像はワカタカの像?
これも誤りである。記念碑に設置されている銅像はトウルヌソルで、ワカタカはその産駒にあたる。初代日本ダービー優勝馬と、その父である種牡馬を区別すると、記念碑の意味が正確に理解できる。
誤解3:競馬場のコースがそのまま保存されている?
競馬場の施設や芝のコースがそのまま残っているわけではない。現在確認できるのは、住宅街の中に残る外周道路のカーブや記念碑、バス停名などである。現地を訪れる際は、遺構の保存施設ではなく、街並みに残る歴史の痕跡を探すという視点が適している。
【目黒競馬場に関するよくある質問(FAQ)】
Q1:目黒競馬場は現在のどこにありましたか?
A1:東京都目黒区下目黒四丁目・五丁目・六丁目付近です。目黒消防署の裏手一帯にあたり、現在は住宅街や学校になっています。
Q2:目黒競馬場が開設されたのは何年ですか?
A2:明治40年(1907年)です。目黒区の文化財資料によると、最初の競馬は同年12月に4日間開催されました。
Q3:第1回日本ダービーの優勝馬は何ですか?
A3:1932年4月24日に目黒競馬場で開催された第1回日本ダービーの優勝馬はワカタカです。19頭が出走した歴史的なレースでした。
Q4:目黒競馬場はなぜ府中へ移転したのですか?
A4:周辺の宅地化、地価や地代の上昇、借地中心の土地事情、競馬人気の高まりによる施設拡張の難しさなどが主な理由です。1933年に府中の新競馬場へ開催機能が引き継がれました。
Q5:元競馬場の碑はどこにありますか?
A5:東京都目黒区下目黒五丁目1番11号です。目黒通り沿いの「元競馬場前」バス停付近にあり、トウルヌソルの銅像が設置されています。
Q6:目黒競馬場のコース跡は現在も見られますか?
A6:はい。下目黒四丁目周辺には、競馬場外周の輪郭を思わせる湾曲した道路が残っています。特に多摩大学目黒高等学校裏の五差路から不動小学校方面へ続く道が、目黒区によって紹介されています。
Q7:目黒記念は目黒競馬場と関係がありますか?
A7:深い関係があります。目黒競馬場の名前を後世に残すため、1932年に目黒記念が創設されました。現在は東京競馬場で行われるGⅡ競走として続いています。
まとめ:目黒競馬場の跡地には日本ダービー発祥の記憶が残る
目黒競馬場は、1907年に開設され、1932年の第1回日本ダービーでワカタカが勝利した、日本競馬の歴史を語るうえで欠かせない場所である。周辺の宅地化や地代の上昇、競馬人気の拡大による施設の限界などを背景に、1933年に府中へ移転した。
2026年現在、かつての競馬場は住宅街へと姿を変えている。しかし、下目黒五丁目1番11号の元競馬場の碑、ワカタカの父トウルヌソルの銅像、住宅街に残る外周道路のカーブ、「元競馬場前」というバス停名が、その歴史を現在につないでいる。
さらに、1932年に創設された目黒記念は、2026年も第140回を迎えた。競馬場そのものは府中へ移ったものの、目黒という地名は重賞競走の名前として生き続けている。
目黒競馬場跡を訪れるなら、記念碑だけを見て帰るのではなく、下目黒四丁目から六丁目にかけての街並みや外周道路にも目を向けたい。現在の住宅街の風景と、90年以上前に日本ダービーが開催された歴史を重ね合わせることで、東京の都市形成と日本競馬の発展を同時に感じられるはずだ。
主な事実確認資料
- 目黒区「歴史を訪ねて 目黒競馬場 1・2」「目黒競馬場外周の道」「文化財めぐり」
- 目黒区「めぐの日記 令和4年度」
- JRA「日本ダービーの歴史・過去成績」「目黒記念の歴史・コース」「2026年第140回目黒記念レース結果」
- 一般社団法人東京馬主協会「東京競馬場の沿革・年表」
- めぐる・めぐろ(目黒観光まちづくり協会)「元競馬場の碑(トウルヌソル像)」
- 東急バス「元競馬場前 のりば地図」
(出典: 目黒 競馬 場(Yahoo!ニュース))