【人物比較】高野長英と渡辺崋山はどんな人物?二人の関係を解説

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【人物比較】高野長英と渡辺崋山はどんな人物?二人の関係を解説
【人物比較】高野長英と渡辺崋山はどんな人物?二人の関係を解説
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二人は同じ蘭学者という括りで語られることがありますが、専門分野も社会的な立場も異なっていました。

渡辺崋山は、田原藩の家老・画家・政治実務家という複数の顔を持つ人物です。一方、高野長英は、西洋医学と蘭学を専門とする医師・思想家として活動しました。

渡辺崋山:藩政と海防を担った画家・政治家

高野長英渡辺崋山
【画像】高野 長英 渡辺 崋山 関連ショット

1793年~1841年

渡辺崋山は寛政5年(1793年)、江戸の田原藩上屋敷に生まれました。幼い頃から貧しい家庭環境のなかで学問と絵画に励み、金子金陵や谷文晁に絵を学びます。

儒学では佐藤一斎らに師事し、幅広い学問を身につけました。

天保3年(1832年)には田原藩の家老となり、藩財政の立て直しや海防政策に関わります。太平洋に面した田原藩にとって、外国船の来航は遠い国の出来事ではありませんでした。

崋山が蘭学者との交流を深めたのも、単なる知的好奇心からではありません。西洋の軍事力や海外事情を理解し、藩の防衛に役立てる必要があったためです。

画家としても高い評価を受け、西洋画法の陰影や遠近法を取り入れた肖像画を残しています。代表作の「鷹見泉石像」は、その写実性を伝える作品です。

高野長英:シーボルトから西洋医学を学んだ蘭学者

高野長英渡辺崋山
【写真】高野 長英 渡辺 崋山 近影・注目カット

1804年~1850年

高野長英は文化元年(1804年)、陸奥国水沢(現在の岩手県奥州市)に生まれました。

医学を志して江戸に出た後、長崎に渡り、ドイツ人医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが開いた鳴滝塾で学びます。

文政8年(1825年)から文政11年(1828年)までの留学期間は、長英の学問人生を決定づけました。

鳴滝塾では医学だけでなく、オランダ語を通じて外国の地理、歴史、自然科学なども学びました。シーボルトの日本研究を助ける助手としても活動し、門人が提出したオランダ語論文42点のうち、長英の論文は11点を占めています。

帰国後は江戸で医師として活動し、医学書の著述や海外情勢の研究にも取り組みました。

渡辺崋山と知り合ったのは、長英が江戸に戻った後です。崋山の蘭学研究を支え、海外事情や医学などの知識を提供する立場にありました。

【交流の実態】二人を結び付けた尚歯会とは?

高野長英渡辺崋山
【資料】高野 長英 渡辺 崋山 報道・メディア記録

二人の関係を理解するうえで欠かせないのが、尚歯会(しょうしかい)です。

尚歯会は、江戸時代後期に知識人が集まり、社会問題や海外事情などについて情報を交換した会合でした。

中心人物の一人は、紀州藩の儒者・遠藤勝助です。

尚歯会は何を目的とした集まりだったのか

尚歯会は、もともと天保の飢饉への対応を考えるために設けられました。

当時は天保の大飢饉によって各地で深刻な食糧不足が発生していました。そのため、参加者は救荒策や農業、医学など、実際の社会問題に役立つ知識を交換していました。

その後、海外情報や西洋の学問を共有する場としても機能するようになります。

主な関係者には次の人物がいました。

- 遠藤勝助:会合の主宰者。紀州藩の儒者。
- 渡辺崋山:田原藩家老。海外事情と海防政策を研究。
- 高野長英:蘭学者。医学や西洋事情に詳しい。
- 小関三英:蘭学者。洋学研究に携わった。
- 江川英龍:韮山代官。海防や西洋砲術に関心を持った幕臣。
- 川路聖謨:幕臣。政治や海外情勢に関わった人物。

ここで重要なのは、尚歯会を単純に反幕府の政治結社と理解しないことです。

山川出版社『日本史小辞典』の解説では、尚歯会は飢饉対策を出発点とした知識・情報交換の場であり、洋学研究団体や政治的結社とみなすことには慎重な見方も紹介されています。

つまり、参加者全員が同じ政治思想を持っていたわけではありません。

高野長英と渡辺崋山はどのように協力したのか

二人の協力関係は、学問と実務の結び付きに特徴があります。

崋山は藩の海防を担当する立場から、西洋の軍事力や国際情勢について知る必要がありました。

長英はシーボルトから学んだ蘭学や医学、海外情報についての知識を持っていました。

崋山にとって長英は、西洋事情を理解するための重要な学問上の協力者でした。一方、長英にとって崋山は、学問上の知識を藩政や海防という現実の問題に結び付ける存在だったのです。

この交流があったからこそ、二人はモリソン号事件をめぐって共通の問題意識を持つようになりました。

【蛮社の獄の原因】なぜ高野長英と渡辺崋山はともに処罰されたのか?

蛮社の獄が起きた直接的な背景には、1837年のモリソン号事件と、幕府の異国船打払政策への批判がありました。

ただし、事件を単純に「外国との交流を求めた蘭学者が弾圧された」と説明するだけでは、当時の政治状況を十分に理解できません。

幕府は外国船の来航を安全保障上の問題として捉えており、蘭学者たちの批判は、その政策の根本に触れるものだったからです。

1.1837年のモリソン号事件が発端となる

文政8年(1825年)、幕府は異国船打払令を発令し、日本近海に現れる外国船を原則として追い払う方針を強めていました。

そのような状況で、天保8年(1837年)、アメリカ船モリソン号が浦賀沖に現れます。

同船は日本人漂流民の送還を目的の一つとして来航し、通商も求めていました。しかし、幕府側は異国船打払令に基づいて砲撃し、船を退去させます。

これがモリソン号事件です。

ここで押さえておきたいのは、モリソン号が実際にはイギリス船ではなく、アメリカ船だったという点です。

当初、オランダ商館から幕府に伝えられた情報には誤りがあり、外国船の正体や来航目的について正確な情報が十分に共有されていませんでした。

翌1838年、幕府はオランダ商館長から提出された情報によって、前年に撃退した船が日本人漂流民の送還を企図していたことを知ります。

それでも幕府の評定所は打払いの継続を答申しました。

この対応に疑問を持ったのが、崋山と長英でした。

2.渡辺崋山が『慎機論』を書いた理由

渡辺崋山は天保9年(1838年)、『慎機論(しんきろん)』を執筆しました。

これはモリソン号事件を踏まえ、幕府の対外政策に疑問を呈した著作です。

崋山は、外国の軍事力や世界情勢を十分に理解しないまま、外国船を武力で追い払う政策を続けることに危機感を持っていました。

西洋諸国の軍事力が強大化している状況では、従来の強硬策が日本にとって危険な結果を招く可能性があったからです。

ただし、『慎機論』は完成したうえで公刊された書物ではありません。

国立国会図書館の解説によれば、崋山は執筆内容が過激であると判断して途中で筆を止め、未完の原稿として残していました。

その原稿が1839年の蛮社の獄で自宅を捜索された際に発見され、幕政批判の証拠として扱われます。

3.高野長英が『戊戌夢物語』を書いた理由

高野長英も、同じく天保9年(1838年)に『戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)』を著しました。

この著作では、外国船への打払いを続ける幕府の方針を批判し、海外情勢を踏まえた対応の必要性を論じています。

『慎機論』と異なる点は、その流布のされ方です。

国立国会図書館の資料解説によると、『戊戌夢物語』は写本として流通し、一定の反響を呼んだとされています。

つまり、崋山の『慎機論』が未完成の草稿として自宅に残されていたのに対し、長英の著作は人々の間に広まっていました。

幕府にとって、こうした著作は単なる学術的な議論ではありません。幕府の対外政策に疑問を投げ掛け、政策への不信を広げかねないものだったのです。

4.鳥居耀蔵による探索と摘発

蛮社の獄を理解するうえで重要な人物が、幕府の目付・鳥居耀蔵(とりいようぞう)です。

鳥居は、幕府の教学を担った林家の出身で、蘭学者を中心とする知識人の集まりを警戒していました。

国立国会図書館の解説では、鳥居らが江川太郎左衛門による江戸湾測量に崋山が関与していることを把握し、身辺を捜索して部下に密告させた経緯が紹介されています。

捜査では、無人島への渡航に関与した疑いなども問題になりました。

しかし、最終的に崋山と長英の処罰を決定づけたのは、幕府の政策を批判する著作でした。

天保10年(1839年)5月、崋山や長英、小関三英ら蘭学者が摘発されます。

この事件で、崋山は田原での蟄居、長英は永牢を命じられました。

【比較・年表】高野長英と渡辺崋山の違いと蛮社の獄後の運命

二人は同じ事件で処罰されましたが、その後の人生は大きく異なります。

違いを理解するために、人物の立場、著作、処罰内容、最期を整理します。

比較項目渡辺崋山高野長英
生没年1793~1841年1804~1850年
主な専門絵画・儒学・政治・海防蘭学・医学・海外事情
社会的立場田原藩家老医師・蘭学者
学問上の交流尚歯会などで洋学者と交流尚歯会などで洋学者と交流
関連著作『慎機論』『戊戌夢物語』
摘発1839年1839年
処罰田原で蟄居永牢
その後1841年に自刃1844年に脱獄
最期1841年、田原で自刃1850年、江戸で捕縛時に自刃

この比較から分かるのは、二人の違いが単なる思想や性格の違いではないということです。

崋山は藩の家老という公的な責任を背負い、長英は医師・学者として活動する立場でした。

そのため、同じ幕府批判に関わっていても、処罰後に置かれた状況は大きく異なりました。

【二人の最期】渡辺崋山の自刃と高野長英の脱獄・逃亡

渡辺崋山はなぜ自刃したのか

渡辺崋山は、蛮社の獄によって捕らえられた後、天保10年(1839年)12月18日に田原での蟄居を申し渡されました。

翌1840年1月に田原へ到着し、2月には池ノ原の屋敷で謹慎生活を始めます。

かつて藩政や海防に携わり、画家としても活躍していた崋山にとって、蟄居生活は厳しいものでした。

さらに、生活を支えようとする弟子たちの行動も、思わぬ問題を引き起こします。

田原市博物館が所蔵する重要文化財「自筆遺書(椿椿山宛)」の解説によると、弟子の福田半香は崋山の窮状を見かねて、書画会を開こうとしました。

ところが、蟄居中の人物を支援する書画会は不謹慎だという風聞が広がり、藩主や周囲に迷惑が及ぶことを崋山は恐れました。

そして、天保12年(1841年)10月11日、崋山は田原の池ノ原で自刃します。

遺書には、自身の行動を省みる言葉や、将来、自分の死を悲しむ人がいるのだろうかという心情が記されていました。

この遺書は、田原市博物館に重要文化財として収蔵されています。

崋山の最期は、単に幕府の処罰を受けたことだけで説明できません。藩主への忠誠心、蟄居中の社会的な立場、周囲に迷惑を掛けたくないという思いが重なった悲劇でした。

高野長英は1844年に脱獄した

高野長英は、蛮社の獄で永牢を命じられ、小伝馬町牢屋敷に収監されました。

永牢とは、期限を定めない長期の拘禁を意味します。

しかし、投獄から5年余りが過ぎた弘化元年(1844年)6月30日、牢屋敷で火災が発生します。

当時の制度では、火災の際に囚人をいったん解き放ち、火災後に戻らせる扱いがありました。

長英もこのとき解き放されましたが、牢屋敷には戻らず、そのまま逃亡します。

ここで興味深いのが、火災が偶然だったのか、計画的な脱獄だったのかという問題です。

奥州市の高野長英記念館は、幕府関係の記録に、栄蔵という人物が長英から依頼されて放火したと申し立てた内容が残っていることを紹介しています。

一方で、栄蔵の証言が真実だったかどうかは確定できません。

したがって、計画的な脱獄を疑わせる史料はあるものの、放火の経緯をすべて確定した事実として扱うことはできません。

逃亡生活と宇和島藩での活動

脱獄後の長英は、全国各地を転々としながら身を隠しました。

逃亡経路には不明な部分が多く、奥州市の高野長英記念館が2026年8月に更新した解説でも、複数の伝記や藩の記録を比較しながら足取りが検討されています。

長英は郷里の水沢で母親と再会したとされ、その後も江戸周辺などに潜伏しました。

この時期にも学問を捨てたわけではありません。

翻訳や医学の研究を続け、嘉永元年(1848年)には宇和島藩主・伊達宗城に招かれます。

宇和島では西洋の兵学書などの翻訳に携わり、藩の軍事知識の向上に貢献しました。

その後、嘉永2年(1849年)には江戸に戻り、沢三伯と名乗って医師として活動します。

しかし、逃亡生活は長く続きませんでした。

1850年、高野長英の最期

嘉永3年(1850年)10月30日、幕府の役人が長英の潜伏先を急襲しました。

長英は捕縛される際に抵抗し、最後には持っていた脇差で自ら喉を突きます。

奥州市の高野長英記念館が紹介する『高野長英傳』所収の「高野長英御裁許書」写しによれば、長英は重傷を負い、役所へ連行された後に亡くなりました。

享年は数え年47歳です。

長英が亡くなったのは、ペリーが浦賀に来航する1853年のわずか3年前でした。

自分が警告していた西洋列強との関係が大きく変化する時代を、長英は見ることができなかったのです。

【誤解を検証】蛮社の獄を理解するために知っておきたい4つの事実

二人の歴史を調べる際には、後世に広まった説明と、残された史料から分かる事実を区別することが大切です。

誤解1:モリソン号はイギリス船だった?

実際にはアメリカ船です。

当時のオランダ商館からの情報には誤りがあり、イギリス船として認識されていました。

そのため、当時の著作にイギリス船という表現が登場しても、実際の船籍と混同しないよう注意が必要です。

誤解2:尚歯会は反幕府の秘密結社だった?

尚歯会は、もともと飢饉対策を目的とした知識人の会合です。

後に海外情報の交換なども行われましたが、参加者全員が反幕府の思想を共有していたわけではありません。

誤解3:渡辺崋山は幕府批判の著書を出版した?

『慎機論』は、完成した著作を公刊したものではありません。

崋山自身が途中で筆を止めた未完の原稿が、事件の捜索時に発見されたものです。

一方、『戊戌夢物語』は写本として流通しました。

誤解4:高野長英の脱獄は完全に解明されている?

牢屋敷の火災を利用した逃亡は記録に残っていますが、放火の経緯や逃亡ルートには不明点があります。

2026年現在も、奥州市の高野長英記念館では関連する記録や伝記を踏まえた検討が紹介されています。

このように、歴史上の出来事を判断する際には、次の3点を確認すると理解が深まります。

- 同時代の記録や本人の著作が残っているか。
- 後世の伝記と公的機関の史料解説が一致しているか。
- 確定した出来事と、複数の説がある出来事が区別されているか。

【高野長英と渡辺崋山】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:高野長英と渡辺崋山はどのような関係でしたか?

A1:二人は蘭学を通じて交流した同志です。渡辺崋山は田原藩の家老として海防や海外情勢を研究し、高野長英はシーボルトの鳴滝塾で学んだ医学・蘭学の知識を提供しました。尚歯会などの交流を通じて、外国船への対応について共通の問題意識を持つようになりました。

Q2:蛮社の獄で二人が処罰された理由は何ですか?

A2:1837年のモリソン号事件をきっかけに、幕府の異国船打払政策を批判する著作を書いたことが大きな理由です。崋山の『慎機論』と長英の『戊戌夢物語』が幕政批判の証拠とされ、1839年に摘発されました。

Q3:渡辺崋山と高野長英はどちらが先に亡くなりましたか?

A3:渡辺崋山が先です。崋山は1841年10月11日に田原で自刃しました。高野長英は1844年に脱獄し、逃亡生活を送った後、1850年10月30日に江戸で捕縛された際に自ら喉を突き、その後亡くなりました。

まとめ:二人の思想と運命を分けたもの

高野長英と渡辺崋山は、蘭学を通じて西洋の知識を吸収し、日本の将来を考えた江戸後期の知識人でした。

二人がともに蛮社の獄で処罰された背景には、1837年のモリソン号事件と幕府の異国船打払政策、そして鳥居耀蔵らによる蘭学者への警戒がありました。

渡辺崋山は『慎機論』で対外政策を批判し、高野長英は『戊戌夢物語』で外国船への対応を論じました。二人の著作は、単なる西洋への憧れではなく、国際情勢を踏まえて日本の安全を考えた問題提起でした。

その後、崋山は藩への責任を抱えたまま1841年に自刃し、長英は脱獄して逃亡生活を送りながら学問を続け、1850年に最期を迎えます。

二人の歴史から見えてくるのは、海外情報を知ることと、その知識を政治や社会のなかで生かすことの難しさです。蛮社の獄は、幕府による蘭学者の弾圧事件であると同時に、日本が西洋列強と向き合う時代へ移る過程で起きた、知識と政治の衝突を象徴する出来事でもありました。

2026年に二人の足跡をたどるなら、国立国会図書館のデジタル資料、田原市博物館の渡辺崋山関係資料、奥州市の高野長英記念館の展示・解説を照らし合わせると、人物像と事件の背景をより立体的に理解できます。 (出典: 高野 長英 渡辺 崋山(Yahoo!ニュース))