飛鳥時代の天皇は誰から誰まで?2026年版・歴代11代の順番と年表を徹底解説

目次
飛鳥時代の天皇は誰から誰まで?2026年版・歴代11代の順番と年表を徹底解説
飛鳥時代の天皇は誰から誰まで?2026年版・歴代11代の順番と年表を徹底解説
@ creator • Click to Play Video Inline
🎵 飛鳥時代の天皇は誰から誰まで?2026年版・歴代11代の順番と年表を徹底解説

飛鳥時代の天皇は誰から誰までなのか。歴代天皇の順番や在位期間を調べると、推古天皇、舒明天皇、皇極天皇、孝徳天皇、斉明天皇、天智天皇、弘文天皇、天武天皇、持統天皇、文武天皇、元明天皇という名前が並びます。一般的な時代区分では、592年の推古天皇即位から710年の平城京遷都までが飛鳥時代です。

ただし、皇極天皇と斉明天皇は別々の人物ではなく、同一人物が退位後に再び即位したものです。また、天智天皇は中大兄皇子、天武天皇は大海人皇子という即位前の名前で知られ、壬申の乱や大化の改新など、日本の国家体制を大きく変えた出来事とも深く結び付いています。2026年現在の歴史資料や皇統譜に基づき、歴代天皇の一覧、在位年、系図、政治改革、時代の転換点を順番に整理します。

📌 【この記事の重要ポイントまとめ】

  • 歴代天皇:一般的な592~710年の区分では、第33代推古天皇から第43代元明天皇までの11代。
  • 重要な人物関係:皇極天皇と斉明天皇は同一人物。中大兄皇子は後の天智天皇、大海人皇子は後の天武天皇。
  • 時代の転換点:645年の大化の改新、672年の壬申の乱、694年の藤原京遷都、701年の大宝律令制定、710年の平城京遷都。

【飛鳥時代の天皇は誰から誰まで?592~710年の範囲を整理】

飛鳥時代天皇
【画像】飛鳥 時代 天皇 関連ショット

飛鳥時代の天皇は、一般的な歴史区分では第33代推古天皇から第43代元明天皇までです。期間は592年から710年までのおよそ118年間で、皇位の継承だけでなく、日本の政治制度、外交、宗教、都の構造が大きく変化しました。

この時代区分は、政権の所在地や政治の中心地を基準にしたものです。推古天皇が即位した時期から、元明天皇が平城京へ都を移した時期までを飛鳥時代とする説明が広く用いられています。

飛鳥時代の始まりは592年、終わりは710年

飛鳥時代天皇
【写真】飛鳥 時代 天皇 近影・注目カット

592年は、崇峻天皇が蘇我馬子によって暗殺された年であり、その後に推古天皇が即位した年です。推古天皇の即位を時代の始まりとすることで、政治の主導権や王権のあり方が変化していく時代を捉えられます。

なお、推古天皇の即位年は592年とされる一方、翌593年が推古元年に当たります。これは即位した年と元号・年次の数え方の違いによるもので、資料によって592年と593年の両方が登場します。

一方、710年は元明天皇が平城京へ遷都した年です。政治の中心が奈良盆地北部に移り、一般的に奈良時代の始まりとされています。

ただし、元明天皇の在位は707年から715年まで続きます。そのため、元明天皇は飛鳥時代の最後の天皇であると同時に、奈良時代の初期にも在位した天皇です。710年に退位したわけではありません。

飛鳥時代の始期には別の考え方もある

飛鳥時代天皇
【資料】飛鳥 時代 天皇 報道・メディア記録

飛鳥時代という呼び名には、歴史学上、いくつかの区分方法があります。政治史では推古天皇の即位した592年を起点とする説明が一般的ですが、仏教公伝を重視し、538年または552年から広く捉える考え方もあります。

また、645年の乙巳の変・大化の改新を境に、飛鳥時代を前期と後期に分ける説明もあります。つまり、592~710年という区分は歴史を理解するための標準的な目安であり、すべての歴史研究で唯一の区切りとして固定されているわけではありません。

【飛鳥時代の歴代天皇一覧】即位順と在位期間を年表で比較

飛鳥時代の天皇を順番に覚えるには、天皇の代数と在位期間、代表的な出来事を一緒に確認するのが効果的です。

宮内庁の天皇系図に記載された代数と、衆議院憲法審査会事務局の参考資料、奈良県の歴史年表などを照らし合わせると、次のように整理できます。

代数天皇名在位期間主な出来事・特徴
第33代推古天皇592~628年聖徳太子の摂政、冠位十二階、十七条憲法
第34代舒明天皇629~641年遣唐使の派遣、飛鳥岡本宮
第35代皇極天皇642~645年乙巳の変、大化の改新の始まり
第36代孝徳天皇645~654年大化の改新、難波宮への遷都
第37代斉明天皇655~661年皇極天皇の重祚、百済救援
第38代天智天皇668~672年中大兄皇子、近江大津宮、近江令に関わる政治改革
第39代弘文天皇672年大友皇子、壬申の乱
第40代天武天皇673~686年八色の姓、飛鳥浄御原令の制定着手
第41代持統天皇690~697年飛鳥浄御原令の施行、694年の藤原京遷都
第42代文武天皇697~707年701年の大宝律令制定
第43代元明天皇707~715年710年の平城京遷都

この一覧で押さえたいのは、11代の天皇名が並んでいても、実際の人物は10人という点です。皇極天皇と斉明天皇は同一人物であり、退位と再即位によって第35代と第37代の両方に数えられています。

また、在位期間は西暦の年単位で整理したものです。天智天皇の崩御は旧暦では671年ですが、西暦換算では672年1月と表記されることがあります。古代史の年表では、旧暦と西暦の換算方法による違いにも注意が必要です。

在位期間で覚えておきたい3つのポイント

舒明天皇は629~641年の約13年間在位しました。推古天皇の後を継ぎ、唐との外交関係を進めた時期の天皇です。

皇極天皇と斉明天皇は642~645年、655~661年という2つの在位期間を持ちます。間に孝徳天皇の在位があるため、連続した在位ではありません。

元明天皇は707~715年に在位しました。710年の平城京遷都を実施した天皇として、飛鳥時代から奈良時代への移行を象徴する人物です。

【飛鳥時代の天皇系図】皇極・斉明、天智・天武、持統・元明の関係

飛鳥時代の皇位継承を理解するうえで、系図は欠かせません。この時代は親子間の継承だけでなく、兄弟間の継承、皇后からの即位、再即位などが重なっています。

宮内庁が公開する天皇系図では、歴代天皇の代数と皇統のつながりが整理されています。飛鳥時代の主要人物の関係を簡略化すると、次のようになります。

飛鳥時代の主要な皇族関係

  • 推古天皇:欽明天皇の皇女。厩戸皇子(聖徳太子)が摂政として政治を補佐した。
  • 舒明天皇:第34代天皇。皇極天皇(宝皇女)を皇后とした。
  • 皇極・斉明天皇:舒明天皇の皇后で、中大兄皇子と大海人皇子の母。
  • 天智天皇:中大兄皇子。天武天皇の兄であり、持統天皇と元明天皇の父。
  • 天武天皇:大海人皇子。天智天皇の弟で、持統天皇の夫。
  • 持統天皇:天智天皇の皇女で、天武天皇の皇后。草壁皇子の母。
  • 文武天皇:天武天皇と持統天皇の孫に当たる草壁皇子の子。
  • 元明天皇:天智天皇の皇女。草壁皇子の妃であり、文武天皇の母。

系譜を簡略化した流れは、次のように整理できます。

舒明天皇+皇極(斉明)天皇
↓
中大兄皇子(天智天皇)・大海人皇子(天武天皇)

天智天皇
↓
持統天皇・元明天皇など

天武天皇+持統天皇
↓
草壁皇子
↓
文武天皇(草壁皇子と元明天皇の子)

この系図からも分かるように、天智天皇と天武天皇は兄弟でありながら、皇位をめぐって政治的な対立を抱えました。その後、天武天皇の皇后だった持統天皇が即位し、さらに天武・持統両天皇の孫である文武天皇へと皇位が継承されます。

皇極天皇と斉明天皇はなぜ名前が2つあるのか

皇極天皇と斉明天皇は、歴史上の別人ではありません。同一人物である宝皇女が、最初の即位時には皇極天皇、退位後に再び即位した際には斉明天皇と呼ばれています。

このように、一度退位した天皇が再び即位することを重祚(ちょうそ)といいます。皇極天皇は645年に退位し、孝徳天皇に皇位を譲りました。その後、孝徳天皇の崩御を経て655年に再び即位し、斉明天皇となりました。

一般に斉明天皇は、日本史上初めて重祚した天皇とされています。したがって、歴代天皇の一覧で皇極天皇と斉明天皇が別々の代数になっているのは、同じ人物が2度即位したことを反映したものです。

【推古天皇と聖徳太子】飛鳥時代前半の政治と大化の改新

飛鳥時代の前半を代表する天皇が推古天皇です。推古天皇は日本史上初の女性天皇として知られ、豪族が大きな影響力を持っていた時代に、天皇を中心とする政治体制の整備を進めました。

推古天皇の政治を語るうえで欠かせない人物が厩戸皇子、後世に聖徳太子として知られる皇族です。推古天皇が君主として即位し、厩戸皇子が摂政として政治を補佐するという関係にありました。

推古天皇と聖徳太子が進めた政治改革

593年、厩戸皇子は推古天皇の摂政となりました。両者が関わった政治改革の代表例が、603年の冠位十二階と604年の十七条憲法です。

冠位十二階は、氏や姓だけではなく、個人の能力や功績を重視して官人に位階を与える制度でした。従来の豪族の家柄を中心とする秩序に変化をもたらし、天皇を中心とした官僚組織の形成につながりました。

604年に制定された十七条憲法は、役人が守るべき心構えや政治倫理を示した規範です。現代の日本国憲法のような国民の権利や国家機構を定めた近代憲法とは性格が異なります。

607年には小野妹子らが遣隋使として隋に派遣されました。中国大陸の政治制度や文化を積極的に取り入れようとした姿勢は、後の大化の改新や律令国家形成にもつながっていきます。

ここで注意したいのは、聖徳太子は天皇ではないということです。推古天皇の時代に政治を補佐した皇族であり、天皇の一覧には含まれません。

645年の乙巳の変から大化の改新へ

推古天皇の死後、舒明天皇、皇極天皇の時代を経て、645年に大きな政変が起こります。それが乙巳の変(いっしのへん)です。

皇極天皇の在位中、中大兄皇子と中臣鎌足らは、強い政治的影響力を持っていた蘇我入鹿を宮中で殺害しました。翌日には父の蘇我蝦夷も自害し、蘇我本宗家は滅亡します。

この政変の後、皇極天皇は退位し、孝徳天皇が即位しました。中大兄皇子は皇太子として新政権の中心を担い、年号には大化が採用されます。

大化の改新は、この645年の政変を出発点として進められた一連の政治改革を指します。646年には孝徳天皇による改新の詔が出され、土地・人民の支配、地方行政、戸籍、税制などの制度改革が掲げられました。

奈良県立万葉文化館の解説でも、645年の乙巳の変と、その後の孝徳天皇の政治改革は区別しながら説明されています。また、改新の詔に記された制度のすべてが一度に完成したわけではなく、後の天智・天武・持統朝を経て整備された点も重要です。

つまり、大化の改新は一日で国家の仕組みが変わった事件ではありません。豪族中心の政治から、天皇を中心に土地・人民・行政を統一的に把握する国家へ向かう長期的な改革の始まりでした。

【舒明天皇から天武天皇まで】皇位継承と壬申の乱の真相

飛鳥時代の中盤は、皇位継承をめぐる政治的な緊張が高まった時代です。舒明天皇から皇極・斉明天皇、孝徳天皇、天智天皇、弘文天皇、天武天皇へと続く流れには、政変や外交上の危機、皇族間の対立が複雑に絡み合っています。

舒明天皇の在位期間は629~641年

第34代舒明天皇の在位期間は629年から641年までです。父は押坂彦人大兄皇子、母は糠手姫皇女とされ、敏達天皇の孫に当たります。

舒明天皇は宝皇女を皇后としました。この宝皇女が、後の皇極天皇・斉明天皇です。2人の間には中大兄皇子と大海人皇子らが生まれ、後の天智・天武両天皇へとつながります。

舒明天皇の時代には対外交流も進み、630年には犬上御田鍬らが第1回遣唐使として唐に派遣されました。隋が滅亡して成立した唐との外交関係を築こうとした動きであり、日本が東アジアの国際秩序に積極的に関わっていく転換点でした。

孝徳天皇と斉明天皇の政治的な違い

645年に即位した第36代孝徳天皇は、大化の改新を進めた天皇です。即位後、政治の中心を飛鳥から難波へ移し、難波宮を拠点とした新しい政治体制の整備に取り組みました。

しかし、改革を主導した中大兄皇子らとの政治的な関係は次第に複雑になります。653年には中大兄皇子らが飛鳥へ戻り、孝徳天皇は難波に残りました。654年に孝徳天皇が崩御すると、翌655年に皇極天皇が斉明天皇として再び即位します。

斉明天皇の時代には、朝鮮半島情勢が大きな問題となりました。660年に百済が滅亡すると、日本は百済復興を支援する方向へ動きます。斉明天皇は救援のため九州へ向かいましたが、661年に朝倉宮で崩御しました。

天智天皇と中大兄皇子は同一人物

第38代天智天皇は、即位前の名前を中大兄皇子といいます。645年の乙巳の変で中臣鎌足とともに中心的な役割を果たした人物であり、大化の改新を推進した政治家でもあります。

斉明天皇が661年に崩御した後、中大兄皇子はすぐに正式な即位をせず、称制という形で政務を担いました。667年には近江大津宮へ遷都し、668年に正式に即位しています。

天智天皇の時代を理解するうえで重要なのが、663年の白村江の戦いです。日本と百済復興勢力の連合軍は、唐・新羅連合軍に敗北しました。この敗戦によって、対外的な軍事危機への対応と国内の防衛体制整備が重要な政治課題になりました。

天智天皇は地方の行政や戸籍制度などの整備を進め、天皇を中心とした国家体制の強化を図りました。後の律令国家形成につながる制度的な基盤は、この時代にも築かれています。

弘文天皇と壬申の乱、天武天皇の即位

672年の壬申の乱は、飛鳥時代の皇位継承をめぐる最大級の内乱です。天智天皇の死後、皇位継承をめぐって大友皇子と大海人皇子が対立しました。

大友皇子は、現在の歴代天皇の系図では第39代弘文天皇として位置づけられています。一方、大海人皇子は天智天皇の弟であり、後の第40代天武天皇です。

壬申の乱では、大海人皇子側が東国の豪族などの支持を集めて戦い、大友皇子側を破りました。敗れた大友皇子は自害し、大海人皇子は673年に飛鳥浄御原宮で即位します。

この戦いは単なる皇位争いにとどまりません。勝利した天武天皇が皇族を中心とする政治体制を強化し、豪族の序列や行政制度を再編する契機となったからです。

なお、弘文天皇は歴代天皇に数えられますが、壬申の乱で敗れた大友皇子を後世の皇統上でどのように位置づけるかという問題を含んでいます。宮内庁の天皇系図では第39代として記載されています。

【天武天皇から元明天皇へ】政治改革・藤原京・大宝律令・平城京遷都

飛鳥時代の後半は、皇位継承をめぐる争いの時代から、中央集権的な国家制度を整える時代へと移っていきます。天武天皇、持統天皇、文武天皇、元明天皇の4人は、その過程で重要な役割を担いました。

天武天皇の政治改革と八色の姓

壬申の乱に勝利した天武天皇は、皇族が政治の中心となる体制を強化しました。豪族の影響力を調整し、天皇を中心とした統治を実現するため、さまざまな制度改革を進めています。

代表的な施策が、684年の八色の姓(やくさのかばね)です。真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置という8種類の姓を設け、氏族の身分秩序を再編しました。

また、681年には飛鳥浄御原令の制定に着手しました。律令国家の基礎となる法制度を整備する取り組みであり、天武天皇の崩御後も持統天皇に引き継がれ、689年に施行されます。

天武天皇は国史の編纂も命じています。国家の歴史や皇統を整理し、政治的な正統性を明確にすることも、中央集権化を進めるうえで重要な課題でした。

持統天皇と694年の藤原京遷都

天武天皇が686年に崩御すると、皇后だった鸕野讃良皇女が政務を担いました。彼女は690年に正式に即位し、第41代持統天皇となります。

持統天皇は夫の天武天皇が進めた国家改革を引き継ぎ、律令制度の整備と都の建設を推進しました。特に重要なのが、694年の藤原京遷都です。

藤原京は中国の都城制を参考に整備された、日本初の本格的な計画都市とされています。宮殿を中心に道路を碁盤目状に配置する条坊制を採用し、政治や行政を運営するための都市空間を形成しました。

奈良文化財研究所の藤原京に関する解説によると、藤原京の建設は天武天皇の時代に計画が始まり、持統天皇が694年に遷都を実現しました。つまり、天武天皇の構想と持統天皇の実行が組み合わさって完成した事業です。

持統天皇は697年に皇位を文武天皇へ譲りました。皇族間の継承を安定させながら、次世代へ政治を引き継ぐ動きでもありました。

文武天皇と701年の大宝律令

第42代文武天皇は697年に即位し、707年まで在位しました。天武天皇と持統天皇の孫に当たり、父は草壁皇子、母は元明天皇です。

文武天皇の時代を代表する出来事が、701年の大宝律令の制定です。刑法に当たる律と、行政制度などを定める令を組み合わせた本格的な法典で、日本の律令国家体制を整える大きな節目となりました。

編纂には刑部親王や藤原不比等らが関わりました。唐の制度を参考にしながら、日本の社会や政治事情に合わせて制度を整えたものです。

大化の改新から約半世紀が経過し、天智・天武・持統の各天皇が進めてきた政治改革が、法制度として具体的な形を整えた時期に当たります。

元明天皇と710年の平城京遷都

707年に文武天皇が崩御すると、その母である元明天皇が即位しました。第43代元明天皇は、天智天皇の皇女でもあり、天武・持統両天皇の時代から続く皇統の中で重要な位置を占めています。

元明天皇の代表的な事績が、710年の平城京遷都です。藤原京から奈良の平城京へ都を移し、律令国家の政治・行政を担う新たな中心地を整えました。

平城京は唐の長安を参考にした大規模な都で、宮城を中心に整然とした道路網や区画が配置されました。都の移転は単なる住居の変更ではなく、政治や行政の運営基盤を新しい都市へ移す国家的な事業でした。

元明天皇はその後も在位を続け、715年に元正天皇へ譲位します。710年を境に飛鳥時代は終わりますが、元明天皇の治世そのものは奈良時代にも続いていたのです。

【飛鳥時代の天皇を理解するための重要な5つのポイント】

歴代天皇の名前と年号を覚えるだけでは、飛鳥時代の歴史は十分に理解できません。時代を貫く政治的な変化を押さえることで、個々の天皇の役割や皇位継承の意味が見えてきます。

1.女性天皇が複数登場した時代だった

飛鳥時代には推古天皇、皇極・斉明天皇、持統天皇、元明天皇という女性天皇が登場しました。皇極天皇と斉明天皇は同一人物のため、人物としては4人です。

女性天皇の即位は、単純に男女の優劣や現代の制度論で説明できるものではありません。当時の皇位継承では、皇族としての血統、先帝との関係、次の皇位継承者の年齢や政治的な状況など、複数の事情が影響していました。

推古天皇は摂政の厩戸皇子とともに政治を進め、持統天皇は天武天皇の政策を引き継ぎ、元明天皇は文武天皇の死後に即位して平城京遷都を実現しています。それぞれの即位には異なる歴史的背景がありました。

2.大化の改新と大宝律令は同じ出来事ではない

645年の大化の改新は、乙巳の変をきっかけとして始まった政治改革です。一方、701年の大宝律令は、長期間にわたる国家制度の整備を法典としてまとめたものです。

両者は約56年の隔たりがあり、間には天智・天武・持統天皇らによる制度改革がありました。大化の改新だけで律令国家が完成したと理解するのは正確ではありません。

3.天智天皇と天武天皇の対立は国家形成の転換点

天智天皇と天武天皇は兄弟ですが、皇位継承をめぐる対立が壬申の乱へとつながりました。天武天皇は勝利後、皇族を中心とする政治体制を強め、氏族制度や官僚制度の再編を進めています。

壬申の乱は皇位争いという側面だけでなく、その後の中央集権国家の形成に大きな影響を与えた事件でした。

4.藤原京は天武天皇の構想と持統天皇の実行で完成した

藤原京の建設は、天武天皇が計画を進めた後、持統天皇が引き継いで694年に遷都を実現しました。天皇の代替わりがあっても国家的な事業を継続できる政治体制が整い始めていたことを示しています。

5.710年は天皇の交代ではなく、都の移転による時代の区切り

飛鳥時代の終わりを710年とするのは、元明天皇が退位したからではありません。平城京へ遷都し、政治の中心が奈良へ移ったことが理由です。

この違いを理解しておくと、元明天皇の在位が707~715年であることと、飛鳥時代の終わりが710年であることを矛盾なく説明できます。

【飛鳥時代の天皇に関するよくある質問(FAQ)】

Q1:飛鳥時代の天皇は全部で何人ですか?

A1:一般的な592~710年の時代区分では、第33代推古天皇から第43代元明天皇までの11代です。ただし、皇極天皇と斉明天皇は同一人物のため、実際の人物数は10人です。

Q2:飛鳥時代の最初の天皇と最後の天皇は誰ですか?

A2:最初は第33代推古天皇、最後は第43代元明天皇です。推古天皇の即位を592年、元明天皇による平城京遷都を710年として区分します。

Q3:皇極天皇と斉明天皇はなぜ同じ人物なのですか?

A3:皇極天皇は645年に退位した後、655年に再び即位しました。この2度目の即位後の称号が斉明天皇です。一度退位した天皇が再び即位することを重祚といいます。

Q4:聖徳太子は飛鳥時代の天皇ですか?

A4:聖徳太子は天皇ではありません。厩戸皇子という皇族で、593年に推古天皇の摂政となり、冠位十二階や十七条憲法などの政治改革に関わった人物です。

Q5:舒明天皇の在位期間はいつですか?

A5:舒明天皇の在位期間は629~641年です。第34代天皇であり、皇極・斉明天皇の夫、中大兄皇子(天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)の父に当たります。

Q6:弘文天皇と大友皇子は同じ人物ですか?

A6:同じ人物です。大友皇子は天智天皇の後を継いだ人物で、壬申の乱で大海人皇子に敗れました。後に弘文天皇として歴代天皇に位置づけられ、第39代に数えられています。

Q7:飛鳥時代はなぜ710年に終わるのですか?

A7:710年に元明天皇が平城京へ遷都し、政治の中心が奈良へ移ったためです。元明天皇自身は715年まで在位しているため、時代区分の終わりと天皇の在位終了年は一致しません。

まとめ:飛鳥時代の天皇を理解する鍵は皇位継承と律令国家の形成

飛鳥時代の天皇は、一般的な592~710年の区分では第33代推古天皇から第43代元明天皇までの11代です。皇極天皇と斉明天皇が同一人物であるため、実際には10人の天皇がこの期間に登場します。

時代の流れを振り返ると、推古天皇と聖徳太子による政治制度の整備から始まり、舒明天皇・皇極天皇・孝徳天皇の時代には大化の改新が進みました。その後、中大兄皇子が天智天皇となり、弟の大海人皇子が壬申の乱を経て天武天皇として即位します。

さらに天武天皇の改革を持統天皇が引き継ぎ、694年には藤原京へ遷都。文武天皇の時代には701年の大宝律令が制定され、元明天皇の時代には710年の平城京遷都が実現しました。

飛鳥時代の歴史を理解するために重要なのは、天皇の名前を暗記するだけでなく、誰から誰へ皇位が継承され、どの天皇の時代に国家制度が変わったのかを関連付けることです。

592年から710年までの約118年間は、豪族が強い影響力を持つ政治から、天皇を中心とした律令国家へと日本の仕組みが大きく変わった時代でした。推古天皇から元明天皇までの系譜をたどることは、日本の古代国家がどのように形づくられたのかを理解するための重要な手がかりになります。

(出典: 飛鳥 時代 天皇(Yahoo!ニュース))