【科学調査の真相】羊皮紙の年代測定・指紋鑑定・画像解析は何を証明したのか
ラ・ベッラ・プリンチペッサの真贋論争が長期化している最大の理由は、科学的な調査結果が存在するにもかかわらず、それらが作者の特定を直接証明していないことにある。
特に注目されたのが、羊皮紙の放射性炭素年代測定、パスカル・コットによるマルチスペクトル画像解析、そして指紋とされる痕跡の比較である。それぞれの調査は何を明らかにし、どこに限界があるのだろうか。
1. 羊皮紙の年代測定は1440~1650年を示した
羊皮紙の年代測定では、スイス・チューリヒの研究機関による放射性炭素年代測定が実施された。その結果、支持体の年代は1440~1650年の範囲とされた。
レオナルドの生没年は1452~1519年。この年代幅には、彼が活動していた時期が含まれる。したがって、15世紀末の制作というケンプの説と矛盾しない。
しかし、ここには大きな注意点がある。
放射性炭素年代測定で調べたのは羊皮紙という素材の年代であり、絵を描いた時期ではない。古い羊皮紙を後世の画家が使用することも理論上可能だ。
つまり、年代測定によって分かるのは「その素材がレオナルドの時代にも存在していた可能性」であって、「レオナルドがその素材に絵を描いた」という事実ではない。
この区別は、後述するショーン・グリーンハルシュの贋作主張を評価する際にも重要になる。
2. パスカル・コットのマルチスペクトル画像解析
もう一つの重要な調査が、フランスのルミエール・テクノロジーを率いる光学技術者パスカル・コットによる画像解析である。
マルチスペクトル画像解析とは、紫外線から可視光、赤外線など複数の波長で対象物を撮影し、通常の写真では見えない情報を可視化する技術だ。
絵画や素描の鑑定では、次のような情報を調べることができる。
- 表面の下に隠れた下描きや筆線
- 顔料やインクの分布と特徴
- 後世に加えられた修復・補筆の痕跡
- 通常の光では見えにくい表面の凹凸や指紋状の痕跡
- 制作工程や画材の使い分けに関する手掛かり
コットの技術は、作品の内部構造を調べるうえで大きな価値を持つ。レオナルド作品の研究にも応用されてきた技術であり、従来の目視鑑定だけでは把握しにくい情報を提供する。
ただし、画像解析によって顔料や制作工程が明らかになったとしても、同じ技法を使える別の画家が存在する可能性は残る。技術的な特徴の一致と、特定の画家による制作の証明は別問題だ。
科学調査は美術史的な判断を補強するものであり、作者の名前を自動的に判定する装置ではない。
3. 指紋鑑定は決定的証拠になったのか
真作説を大きく広めたのが、作品上に発見された指紋とされる痕跡だ。
2009年の画像調査では、作品の一部に指紋状の模様が確認された。鑑定に関わった法科学専門家ピーター・ポール・ビロは、レオナルドの未完作品「荒野の聖ヒエロニムス」に見られる指紋との類似性を指摘した。
レオナルドは制作中に手を使って絵具を扱うことがあり、作品に指紋が残っている可能性自体は不自然ではない。このため、類似した痕跡の存在は真作説にとって魅力的な材料となった。
しかし、指紋鑑定には重大な問題があった。
比較対象となるレオナルド本人の確実な指紋資料が十分に存在しなかったのである。比較対象の信頼性が確保できなければ、模様が似ているというだけで本人の指紋と認定することはできない。
実際、ケンプとコットは後に指紋の比較結果を決定的な証拠として扱うことを取りやめ、関連する研究書の改訂版では鑑定結果を「結論が出ていない」ものとして整理した。
したがって、ネット上で見かける「レオナルド本人の指紋が一致したため真作確定」という説明は正確ではない。
指紋状の痕跡が確認されたことと、その痕跡がレオナルド本人のものだと証明されたことは違う。ここが科学的根拠を評価する際の重要な境界線になる。
【贋作説と反対意見】なぜ専門家はレオナルド作を認めないのか
ラ・ベッラ・プリンチペッサをめぐる議論は、単純な賛成派と反対派の対立ではない。真作説には複数の研究者による支持がある一方、作品の来歴、技法、羊皮紙の特徴、写本との関連など、解決されていない問題も多い。
反対論1:レオナルドの確実な作品との技法比較
反対論を代表する研究者の一人が、カタジナ・クシジャゴルスカ=ピサレク(Katarzyna Krzyżagórska-Pisarek)である。
彼女は2015年の美術史学術誌『Artibus et Historiae』に、レオナルドへの帰属に反対する論文を発表した。
その主張の中心は、作品をレオナルドの確実な作品と比較した際に、技法や表現に不自然な点が見られることだ。
特に問題視されたのが、羊皮紙にペンとインク、複数色のチョーク、ボディカラーを組み合わせる制作方法である。現存するレオナルドの確実な素描と比較した場合、同じ技法の使用を裏付ける十分な資料がないという。
また、顔の輪郭に沿う斜線の引き方や陰影の処理についても、レオナルドらしい自由な描線とは異なるという批判がある。
ただし、現存作品に類例がないことだけで、未知の作品の存在を否定することもできない。重要なのは、未知の技法を持ち出す場合、それを裏付ける歴史的・物質的な証拠が必要になるという点だ。
反対論2:来歴を裏付ける資料が少ない
美術品の真贋鑑定では、作品そのものの特徴だけでなく、誰が所有し、どのような経路で現在まで伝わったのかという来歴(プロヴェナンス)も重視される。
ラ・ベッラ・プリンチペッサについて、確認できる近代の所有記録は1955年ごろのマルキージ家にさかのぼるとされる。それ以前の所有者や保管場所については、十分な文書資料がそろっていない。
ジャンニーノ・マルキージはフィレンツェで活動した画家・美術修復家だった。レオナルド作品の修復にも関わった人物であり、その経歴は作品の由来を考えるうえで注目されている。
一部の批判者は、彼自身がレオナルド風の作品を制作できた可能性にも言及している。しかし、マルキージ本人がこの作品を描いたという説についても、確定的な証拠が示されているわけではない。
問題の核心は、作品が15世紀末から1950年代まで、どのような経路をたどったのかを連続した記録で説明できないことにある。
反対論3:スフォルツィアーダ写本との縫い穴が一致しない
ケンプとコットは、作品左端にある3つの縫い穴がワルシャワのスフォルツィアーダ写本に対応すると主張した。
ところが、批判側が指摘したのは、写本側には5つの縫い穴があるという点だ。
ケンプ側は、後世の修復や製本の変更、羊皮紙の不規則な切断などを説明として挙げている。一方、反対派は、穴の数や配置が異なる以上、同じ冊子のページだったと断定するには根拠が足りないとする。
この問題は、単なる小さな寸法の違いではない。肖像がスフォルツィアーダに由来するという説は、作品の年代とビアンカの人物同定を結びつける重要な土台だからだ。
写本との物理的な対応が崩れれば、結婚記念の肖像という説明も弱くなる。
反対論4:ショーン・グリーンハルシュの贋作説
2015年、論争をさらに複雑にしたのが、イギリスの著名な贋作師ショーン・グリーンハルシュによる告白だった。
グリーンハルシュは自伝『A Forger's Tale』で、ラ・ベッラ・プリンチペッサを1978年に自分が制作したと主張した。
彼の説明によると、当時16~17歳だった自分は、1587年の日付がある古文書を入手し、その羊皮紙を利用して素描を制作したという。さらに、モデルはボルトンのスーパーマーケットで働いていたサリーという女性だったと述べた。
この主張が注目された理由は、彼が実際に美術品の贋作を制作し、2007年に複数の偽造品をめぐって有罪判決を受けた人物だったからだ。
しかし、告白だけで作者が確定するわけではない。グリーンハルシュの説明には、作品の来歴をめぐるマルキージ家の証言との矛盾もある。
さらに、彼の説明する1587年の羊皮紙という年代は、実施された放射性炭素年代測定の1440~1650年という範囲から外れていない。つまり、羊皮紙の年代だけで彼の主張を完全に否定することはできない。
一方、ケンプとコットは、顔料の構成や描線の高度な技術などを根拠に、グリーンハルシュの説明に強く反論した。2016年の『The Art Newspaper』も、両者の主張と批判側の論点を詳しく報じている。
したがって、グリーンハルシュの告白は重要な反対材料ではあるものの、真犯人による確定的な自白として扱うこともできない。
【2026年最新】ラ・ベッラ・プリンチペッサの真贋論争は現在どうなっている?
2026年11月現在、ラ・ベッラ・プリンチペッサについて、レオナルド・ダ・ヴィンチ作とする説が専門家全体の合意を得たという状況にはなっていない。
真作説を支持するケンプやコットらの研究は、美術史と科学技術を組み合わせた鑑定の先駆的な事例として評価できる。一方、ピサレクらによる反論は、作品の来歴や技法、写本との関連を再検討する必要性を示している。
2022年のNFT販売が示した新たな問題
2022年には、ラ・ベッラ・プリンチペッサのデジタル版がNFTとして販売された。
販売に関わった企業は「検証済みのレオナルド作品」という趣旨の宣伝を行ったが、NFTの取引が成立したことと、物理的な原作品がレオナルド作と認定されたことは同じではない。
ブロックチェーンはデジタル資産の取引履歴を記録できる。しかし、登録された画像の原作品が15世紀にレオナルドによって描かれたかどうかを、ブロックチェーン自体が証明することはできない。
2022年の『The Art Newspaper』の報道では、原作品はスイスの保管庫に置かれ、実物を直接調査できる専門家が限られているという問題も指摘された。2026年現在の保管状況については、最新の確実な公開情報だけでは断定できない。
これは作品の真贋論争における重要な構造的問題だ。研究者が原作品を自由に観察できず、限られた画像データに依存する状況では、第三者による独立検証が難しくなる。
2026年時点で評価すべき5つの判断基準
この作品について新しいニュースや鑑定結果が発表された際には、次の5点を確認すると、宣伝と学術的な証拠を区別しやすい。
- 来歴の連続性:1955年以前の所有記録や、作品の移動を裏付ける一次資料が新たに発見されたか。
- 素材の検証:羊皮紙だけでなく、インクや顔料についても独立した分析が行われたか。
- 指紋の再検証:比較対象となる確実なレオナルドの指紋資料が存在し、再現可能な鑑定が実施されたか。
- 写本との物理的対応:スフォルツィアーダの紙葉、綴じ穴、寸法、材質が第三者の調査でも整合したか。
- 独立した専門家の評価:作品の所有者や鑑定を推進する関係者から独立した研究者が、原作品を直接調査したか。
特に重要なのは、単独の科学的発見ではなく、異なる分野の証拠が互いに矛盾せず、一つの歴史的説明を構成できるかどうかである。
【プロの結論】真作か贋作かを決める最大の壁
美術鑑定において、科学と美術史は対立するものではない。むしろ、両方の証拠がそろって初めて、作者の帰属に強い説得力が生まれる。
ラ・ベッラ・プリンチペッサには、15世紀にも存在した羊皮紙、ルネサンス期と矛盾しない顔料、レオナルドとの関連を指摘された描線、宮廷文化との接点がある。これらは真作説を検討する価値があることを示している。
しかし、素材が古いことは作者が古いことを意味しない。指紋の類似性は本人の指紋であることを意味しない。写本の一部だった可能性も、穴の数や寸法を含めた検証が必要だ。
さらに、ビアンカ・スフォルツァという人物同定にも未解決の問題が残っている。
現状で最も合理的な評価は、「レオナルド作の可能性を主張する研究には注目すべき材料があるが、真作と確定するための独立した証拠と専門家の合意が不足している」というものだ。
作品の価値を判断する際にも、話題性や高額な保険評価、NFTの販売実績を作者認定の根拠にしてはならない。美術史上の真正性と市場価値は、別々の基準で考える必要がある。
【ラ・ベッラ・プリンチペッサ】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:ラ・ベッラ・プリンチペッサは本当にレオナルド・ダ・ヴィンチの作品ですか?
A1:2026年11月現在、作者は確定していない。マーティン・ケンプらは真作説を支持しているが、来歴や技法、指紋鑑定などに反論があり、専門家全体の合意には至っていない。
Q2:描かれている女性はビアンカ・スフォルツァですか?
A2:ケンプが提唱した有力な仮説の一つである。ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァの娘で、1496年にガレアッツォ・サンセヴェリーノと結婚した人物とされる。ただし、肖像との直接的な同一性を証明する資料は不足している。
Q3:羊皮紙の年代測定でレオナルド作と証明されたのですか?
A3:いいえ。羊皮紙の年代は1440~1650年と推定されたが、これは支持体の年代であり、実際の制作時期や作者を特定するものではない。
Q4:指紋鑑定ではレオナルド本人の指紋が確認されたのですか?
A4:指紋状の痕跡とレオナルド作品の指紋との類似性が指摘されたが、比較対象となる確実な指紋資料が不足している。ケンプとコットも後に、この証拠を決定的なものとは扱わなくなった。
Q5:ショーン・グリーンハルシュが制作した贋作だと確定していますか?
A5:確定していない。グリーンハルシュは1978年の制作を主張したが、来歴や画材に関する疑問が残っている。本人の告白だけで作者を特定することはできない。
Q6:現在、原作品はどこにありますか?
A6:2022年の報道ではスイスの保管庫に置かれていた。2026年11月時点の正確な保管場所や公開状況については、確実な最新情報を確認できない。
Q7:1998年のクリスティーズでの落札価格はいくらですか?
A7:購入手数料を含めて21,850ドルと報じられている。当時は19世紀初頭のドイツ派の作品として出品されていた。
まとめ:ラ・ベッラ・プリンチペッサの真相はまだ解明されていない
ラ・ベッラ・プリンチペッサは、単なる作者不明の肖像素描ではない。レオナルド・ダ・ヴィンチという歴史的巨匠の名前、ミラノのスフォルツァ家の宮廷文化、最新の科学鑑定、そして贋作をめぐる告白が複雑に絡み合った美術史上の難題である。
1998年のクリスティーズ競売では約2万ドルで取引された作品が、その後、レオナルドの未発見作品という可能性によって世界的な注目を集めた。ケンプとコットの研究は羊皮紙の年代やマルチスペクトル画像解析、スフォルツィアーダ写本との関連を提示し、真作説の土台を築いた。
一方、指紋鑑定の限界、ビアンカ・スフォルツァという人物の同定、写本の縫い穴の不一致、1955年以前の来歴の不足など、解決すべき問題も残る。グリーンハルシュの贋作主張も、この作品の作者をめぐる不確実性をさらに際立たせた。
2026年11月現在、ラ・ベッラ・プリンチペッサをレオナルドの真作と断定することはできない。しかし、だからといって贋作と確定したわけでもない。
今後の鍵を握るのは、原作品への独立した調査アクセス、来歴を裏付ける新資料、科学分析の再検証、そしてレオナルドの確実な作品との客観的な比較である。
この肖像画の本当の価値は、単にレオナルドの作品かどうかという市場上の問題だけではない。科学技術がどこまで美術史の謎を解き明かせるのか、そして科学的な可能性を歴史的事実へ変えるには何が必要なのか。その問いを現在も私たちに投げかけている。 (出典: la bella principessa(Yahoo!ニュース))