西郷隆盛の本当の顔は肖像画と同じ?写真がない理由と上野銅像の真相を2026年検証
教科書や歴史番組でおなじみの西郷隆盛。その顔といえば、太い眉、大きな目、ふくよかな輪郭を持つ、堂々とした男性の肖像を思い浮かべる人が多いでしょう。しかし、実は私たちが見慣れている西郷隆盛の肖像画は、本人を直接描いたものではありません。西郷隆盛本人の写真は、2026年現在も真正なものが確認されていないのです。
その代表的な肖像画を制作したのは、イタリア人画家エドアルド・キヨッソーネ。西郷の弟・西郷従道と従弟・大山巌の顔を参考にし、さらに親族や旧知の人物の記憶を取り入れて描き上げました。一方、上野公園の銅像を見た妻・糸子が「うちの人はこんな人ではなかった」という意味の言葉を漏らした逸話も残っています。写真がない理由から肖像画の制作過程、銅像との違い、偽物とされる古写真まで、歴史資料を手掛かりに西郷の実像に迫ります。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 写真がない理由:西郷隆盛は生前に一度も写真を撮らなかったと、実子の西郷菊次郎が証言している。
- 肖像画の正体:1883年のキヨッソーネ作は、西郷従道の顔の上半分と大山巌の顔の下半分を参考に、親族らの証言も加えて制作された。
- 上野銅像の真相:高村光雲らが制作した1898年の銅像と、妻・糸子の発言には、顔の似不似だけでは説明できない背景がある。
【結論】西郷隆盛の本当の顔は、私たちが知る肖像画と同じなのか?
最初に答えを示すと、現在一般的に知られている西郷隆盛の肖像画を、本人の顔をそのまま写した記録として扱うことはできません。
西郷隆盛は1828年(文政10年)に薩摩で生まれ、1877年(明治10年)の西南戦争で亡くなりました。坂本龍馬や大久保利通など、同時代の幕末・明治の人物には本人の写真が残されていますが、西郷には本人と確定できる写真がありません。
そのため、後世に伝わる顔のイメージは、写真ではなく肖像画や関係者の記憶によって形成されました。
鹿児島県教育委員会の教育資料では、西郷の特徴的な容姿として、次のようなイメージが紹介されています。
- ふくよかで大柄な体格
- 坊主頭
- 濃く太い眉毛
- 大きな目
- 威厳と親しみやすさを感じさせる風貌
ただし、これらは同時代の記憶や後世の肖像表現を整理した容貌の特徴であり、本人の顔を写真のように復元できるものではありません。
特に注目したいのは、肖像画の印象がそのまま西郷の人物像に結び付いてきたことです。大きな体格や太い眉は、豪快で包容力のある人物というイメージとも結び付いています。
つまり、現在の西郷隆盛の顔は、実際の容貌を伝えようとした人々の記憶と、明治以降の顕彰によって定着した歴史的なイメージの両方から成り立っているのです。
【写真がない理由】西郷隆盛は本当に写真嫌いだったのか?
西郷隆盛の写真が存在しない理由として、一般的に語られるのが「写真嫌いだった」という説です。
しかし、写真を嫌っていたことと、本人の写真が残っていないことは、厳密には別の問題です。この点を考えるうえで重要なのが、実子・西郷菊次郎の証言です。
実子・菊次郎が語った父親の写真事情
西郷菊次郎は、父親の写真について次のように述べたと伝えられています。
「父は生前写真というものは唯の一度もとったことがありません」
この証言は、小学館の雑誌『サライ』でも紹介されています。菊次郎は、父が生前に写真を一度も撮らなかったことを明言しています。
さらに注目すべきなのは、菊次郎自身も、父がなぜ写真を撮らなかったのかについては分からないと説明している点です。
そのうえで、後世に自分の肖像を残す必要がないと考える謙遜の気持ちがあったのではないか、と推測しています。
また、菊次郎の談話には、父が政府に在職していた時期に天皇から写真撮影を勧められたという話も登場します。しかし、それも実現しなかったとされています。
この証言から読み取れるのは、西郷の写真が残らなかったこと自体は家族の記憶によって裏付けられている一方、撮影を避けた具体的な理由までは断定できないということです。
写真が一般に普及し始めた時代だったのになぜ?
西郷が生きた幕末から明治初期は、日本に写真技術が広がっていた時代です。
坂本龍馬や大久保利通など、当時の政治家や志士には写真が残されています。明治政府の要人にとって写真は、個人の記録であると同時に、近代国家の政治的な象徴としても機能していました。
それにもかかわらず、西郷の写真が確認されていないことは、当時の人物記録の中でも特異な事例です。
写真を嫌っていたという説、本人の謙遜によるものという見方などが存在しますが、撮影を拒んだ具体的な動機を確定する史料は見つかっていません。
国立国会図書館のレファレンス協同データベースでも、西郷の写真を探す質問に対して、現存する写真は確認されず、肖像画が紹介されています。
したがって、2026年時点での適切な理解は「西郷隆盛本人の真正な写真は確認されておらず、撮影しなかった理由は確定していない」というものです。
【1883年の肖像画】キヨッソーネは西郷従道と大山巌をどう参考にした?
西郷隆盛の顔を語るうえで欠かせないのが、エドアルド・キヨッソーネによる肖像画です。
現在、教科書や歴史書などで広く知られている西郷の肖像の原型となった作品で、非常に精密なコンテ画として知られています。
制作を依頼したのは得能良介
キヨッソーネは1833年、イタリアのジェノバに生まれた画家・版画家です。1875年(明治8年)に来日し、大蔵省紙幣局で紙幣や印紙のデザイン、銅版技術の指導などに携わりました。
西郷隆盛の肖像画が制作されたのは1883年(明治16年)。依頼したのは、大蔵省の初代印刷局長を務めた得能良介です。
得能良介は西郷従道の妻・清子の父親にあたり、西郷家とも深い関係がありました。西郷の肖像が残されていないことを惜しみ、キヨッソーネに制作を依頼したのです。
鹿児島県立図書館が紹介する作品には「E. Chiossone, Tokio 1883」と記されています。この署名は、明治16年に東京で制作されたことを示す重要な手掛かりです。
顔の上半分は弟・従道、下半分は従弟・大山巌
最も興味深いのは、キヨッソーネが西郷本人の写真を参考にして描いたわけではないという点です。
肖像画の制作では、西郷の近親者の顔立ちが参考にされました。
- 顔の上半分:弟の西郷従道
- 顔の下半分:従弟の大山巌
西郷従道は兄の西郷隆盛と血縁関係にあり、顔立ちを参考にするうえで重要な存在でした。一方、大山巌も西郷の従弟で、肖像画の下半分のモデルとして知られています。
ただし、単純に二人の顔を機械的に合成したわけではありません。鹿児島県教育委員会の資料によれば、西郷の親族や旧知の人物から助言を受け、その記憶も取り入れながら制作されました。
完成した肖像画は西郷家に贈られ、親族からも高い評価を受けたと伝えられています。
現在見られる肖像画にも意外な秘密がある
実は、キヨッソーネが制作したオリジナルの肖像画は現存していません。
鹿児島県教育委員会の資料によると、完成作品は西郷家に贈られましたが、太平洋戦争中の東京空襲で焼失しました。現在広く流通している図版は、戦前に撮影された写真をもとにした複製です。
つまり、私たちが歴史書やインターネットで目にする西郷隆盛の有名な肖像画は、本人の写真でもなく、現存するオリジナル作品そのものでもないのです。
この二重の距離を理解しておくと、西郷の顔をめぐる議論がかなり整理されます。
【人物・作品の関係比較】西郷隆盛の顔を形づくった関係者と肖像画
西郷隆盛の顔をめぐる歴史は、本人だけを追っても理解できません。肖像画を依頼した人物、モデルとなった親族、実際に西郷を知っていた画家、そして銅像の制作者まで、複数の人物が関係しています。
主要な人物と作品の関係を整理すると、次のようになります。
| 人物・作品 | 西郷隆盛との関係 | 肖像制作における役割 |
|---|---|---|
| 西郷隆盛 | 中心人物 | 1828~1877年。本人の真正な写真は確認されていない。 |
| 西郷従道 | 実弟 | キヨッソーネの肖像画で顔の上半分の参考となった。 |
| 大山巌 | 従弟 | キヨッソーネの肖像画で顔の下半分の参考となった。 |
| 得能良介 | 西郷従道の妻・清子の父 | 1883年の肖像画の制作をキヨッソーネに依頼した。 |
| エドアルド・キヨッソーネ | イタリア人画家・版画家 | 親族の顔立ちや関係者の記憶を取り入れ、代表的な肖像画を制作。 |
| 床次正精 | 西郷と面識のあった画家 | 本人と会った記憶をもとに、1887年頃に肖像画を制作。 |
| 高村光雲 | 上野銅像の制作責任者 | 1898年の西郷隆盛銅像の制作を担当。 |
| 西郷糸子 | 妻 | 上野銅像の除幕式での発言が、本人の容貌を考える逸話として伝わる。 |
西郷従道の顔と大山巌の顔を比較すると?
西郷従道は、兄の隆盛と同じ西郷家の血を引く人物です。明治政府で重要な役割を担い、海軍大臣などを務めました。
一方、大山巌は西郷の従弟で、後に日本陸軍の元帥となった軍人です。
この二人の顔立ちを参考にしたことは、西郷の肖像画に血縁者の特徴が反映されていることを意味します。ただし、兄弟や従兄弟であっても、顔全体が同じになるわけではありません。
キヨッソーネの肖像画は、近親者の容貌と周囲の人々が覚えていた西郷の特徴を組み合わせた、歴史的な再構成作品と見るのが適切です。
実際に西郷を知っていた画家・床次正精の肖像画
比較対象として見逃せないのが、床次正精(とこなみ・まさよし)の肖像画です。
床次は西郷本人と面識があった画家で、明治20年(1887年)頃、自分が実際に見た西郷の記憶をもとに何十枚もの下絵を描いたとされています。
さらに、西郷従道や黒田清隆、三島通庸など、西郷をよく知る人物に下絵を見せ、意見を聞きながら修正を重ねました。
鹿児島県教育委員会の資料では、この作品について、本人を実際に知っていた画家が描いた貴重な肖像として紹介しています。
キヨッソーネの作品が親族の顔立ちと証言を中心に構成されたのに対し、床次の作品には画家自身の直接的な記憶が加わっています。
ただし、床次の作品も西郷の死後に描かれたものであり、記憶による再現という限界はあります。どちらか一方だけを絶対的な正解と考えるのではなく、制作の経緯を比較することが大切です。
【上野銅像の真相】高村光雲と妻・糸子の有名な逸話とは?
西郷隆盛の顔を語る際、キヨッソーネの肖像画と並んで必ず話題になるのが、東京・上野恩賜公園に立つ西郷隆盛像です。
この銅像は、1898年(明治31年)、西郷の死から21年後に建立されました。西郷隆盛の人物像を制作したのは高村光雲、傍らの犬を制作したのは後藤貞行です。
高村光雲はどのように西郷の姿を表現したのか
上野の西郷像は、軍服姿ではなく、犬を連れた和装の姿で制作されています。
顔の制作ではキヨッソーネの肖像画や西郷の親族の顔立ち、関係者から聞いた記憶などが参考にされました。身体部分についても、西郷が実際に使用した衣服などが参考資料となっています。
東京都江戸東京博物館図書室が提供するレファレンス情報では、銅像の制作について、高村光雲が木彫の中心を担い、鋳造には岡崎雪聲らも関わったことが紹介されています。
また、犬の像を担当した後藤貞行は動物彫刻で知られた人物です。西郷の銅像は、一人の彫刻家がすべてを制作したというより、複数の専門家が協力した大きな制作事業でした。
妻・糸子が銅像を見て漏らした言葉
上野の銅像には、除幕式に招かれた西郷の妻・糸子にまつわる有名な逸話があります。
銅像の姿を見た糸子は、次のように口にしたと伝えられています。
「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてぇ」
現代の言葉に置き換えると、「うちの主人はこんな人ではなかった」という意味です。
この発言は長年、西郷像の顔が本人に似ていなかったことを示す逸話として紹介されてきました。
しかし、ここには興味深い解釈があります。
小学館の『サライ』が紹介する歴史エピソードでは、糸子の言葉は単純に顔の造形が違うという意味ではなく、夫が人前であのようなくつろいだ姿を見せる人物ではなかったという意味だった可能性が指摘されています。
つまり、糸子が違和感を覚えたのは、顔だけではなく、浴衣姿で犬を連れて歩くという銅像の表現そのものだった可能性があるのです。
なぜ西郷隆盛像は浴衣姿だったのか
西郷は維新の功労者でありながら、西南戦争では新政府軍と戦った人物でもあります。
そのため、上野銅像の建立には政治的な背景もありました。建立地についても当初から上野に決まっていたわけではなく、皇居周辺などの候補地をめぐって議論があったことが、東京都江戸東京博物館図書室の資料で確認できます。
最終的に上野が選ばれた背景には、戊辰戦争時に薩摩軍が彰義隊と戦った土地であるという歴史的なつながりもありました。
銅像の姿は、軍人や政治家としての西郷だけではなく、庶民に親しまれる人物としての西郷を表現したものでもあります。
糸子の逸話を考える際には、本人の容貌だけでなく、妻が知っていた家庭内の姿と、後世の人々が求めた英雄像との違いにも目を向ける必要があります。
【偽物写真の見分け方】フルベッキ群像写真に西郷隆盛は写っている?
西郷隆盛の写真をめぐっては、長年さまざまな古写真が本人のものではないかと話題になってきました。
その代表例が「フルベッキ群像写真」です。
フルベッキ群像写真とは何か
フルベッキ群像写真は、宣教師グイド・フルベッキと多数の日本人男性が一緒に写った古写真です。
後世、この写真に西郷隆盛や坂本龍馬、大久保利通などの幕末の志士が写っているという説が広まりました。
しかし、写真が撮影された時期や場所、写っている人物の特定には問題がありました。
国立国会図書館のレファレンス協同データベースでは、写真は明治元年頃に長崎の写真師・上野彦馬の写真館で撮影されたものと考えられる一方、被写体の特定については多くの否定資料があり、確定していないと整理されています。
2024年の写真研究で示された検証結果
この問題について重要なのが、2024年に『日本写真学会誌』に掲載された伊藤泰雄氏の研究論文「顔認証技術を用いた古写真の人物特定~『フルベッキ写真』への応用」です。
同研究では、顔認証技術を使い、フルベッキ群像写真に写る人物と、身元が分かっている人物の肖像写真を比較しました。
その結果、岩倉具定・具経兄弟や佐賀藩出身者などの人物が確認された一方、俗説で名前が挙がっていた西郷隆盛や坂本龍馬らについては、同一人物ではないという判定が示されました。
ただし、同論文も、古写真の画質や撮影時の年齢差などによって顔認証が誤判定する可能性を指摘しています。顔認証の結果だけで歴史上の人物を完全に特定できるわけではありません。
それでも、少なくともフルベッキ群像写真を西郷本人の写真として紹介する根拠は乏しいと考えられます。
西郷隆盛の写真とされる画像を見分ける4つの基準
インターネット上で「西郷隆盛の本物の写真」と紹介されている画像を見つけたときは、次の点を確認することが重要です。
① 撮影年月日が明確か
西郷は1877年に亡くなっています。本人の写真を主張するなら、それ以前に撮影されたことを確認できる必要があります。
② 撮影者や写真館が特定されているか
写真師の名前、撮影場所、原版の所在などが確認できるかどうかは、真正性を判断するうえで重要です。
③ 写真の来歴が明らかか
誰が撮影し、どの家や機関に保管され、いつ公表されたのか。こうした資料の伝来経路が不明な写真は、慎重に扱う必要があります。
④ 本人の写真と比較する根拠があるか
キヨッソーネの肖像画に似ているというだけでは、西郷本人だとは証明できません。そもそもキヨッソーネの作品自体が、従道や大山巌の顔立ちを参考にした再構成作品だからです。
【プロの結論】本物を見極めるなら顔の類似より資料の来歴
古写真の真偽を判断するとき、最も注意したいのは「西郷に似ているから本物」という考え方です。
人間の顔は見る人の先入観によって印象が変わります。特に西郷のように、誰もが有名な肖像画を通して顔を知っている人物は、似た輪郭や眉の人物を見るだけで本人だと思い込んでしまうことがあります。
歴史資料としての信頼性を考えるなら、顔の印象よりも、撮影年代、撮影者、原版、所蔵記録、当時の記録との整合性を優先すべきです。
2026年現在、西郷隆盛の真正な写真として公的に確認された資料はありません。新たな写真が発見されたと主張する情報に接した場合も、まずは所蔵機関や研究論文による検証があるかどうかを確認することが大切です。
【西郷隆盛の本当の顔】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:西郷隆盛の本当の顔が分かる写真は存在しますか?
A1:2026年現在、本人の真正な写真は確認されていません。実子の西郷菊次郎も、父は生前に一度も写真を撮らなかったと証言しています。
Q2:西郷隆盛の有名な肖像画は誰が描いたのですか?
A2:イタリア人画家エドアルド・キヨッソーネが1883年に制作したコンテ画が代表的です。西郷従道の顔の上半分と大山巌の顔の下半分を参考に、親族や旧知の人物の証言も取り入れて完成させました。
Q3:西郷隆盛の顔は西郷従道と大山巌のどちらに似ていたのですか?
A3:キヨッソーネの肖像画では、上半分が弟の西郷従道、下半分が従弟の大山巌を参考にしています。ただし、これだけで実際の西郷の顔が二人のどちらに近かったかを断定することはできません。
Q4:上野の西郷隆盛像を制作したのは誰ですか?
A4:人物像は高村光雲が中心となって制作し、傍らの犬は後藤貞行が担当しました。1898年に上野公園に建立されました。
Q5:妻の糸子はなぜ銅像を見て驚いたのですか?
A5:除幕式で「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてぇ」と発言した逸話が残っています。顔が似ていないという解釈のほか、浴衣姿で人前に出るような夫ではなかったという意味だった可能性も指摘されています。
Q6:フルベッキ群像写真に西郷隆盛が写っているという説は本当ですか?
A6:西郷本人が写っているという説を裏付ける確かな証拠はありません。2024年の写真研究では、顔認証による比較でも西郷本人とは判定されていません。
まとめ:西郷隆盛の本当の顔を知る鍵は肖像画と史料の比較にある
西郷隆盛の本当の顔は、現在も完全には分かっていません。本人の写真が確認されていないため、私たちが知る顔は、親族や関係者の記憶をもとに描かれた肖像画によって伝えられてきました。
特に重要なのが、1883年のキヨッソーネ作です。西郷従道と大山巌の顔立ちを参考にしながら、親族や旧知の人々の記憶を取り入れて完成させた作品であり、単純な想像画ではありません。
一方、床次正精のように本人と面識のあった画家による肖像画も残されています。複数の作品を比較することで、後世に作られた英雄像と、実際に西郷を知る人々の記憶の違いが見えてきます。
上野の銅像に対する妻・糸子の発言も、顔の似不似だけではなく、夫がどのような人物だったのかという家族の記憶を考える手掛かりです。
西郷隆盛の顔をめぐる最大の謎は、単に写真がないことではありません。本人の姿を直接記録できなかった時代に、親族、画家、彫刻家、そして後世の人々が、それぞれの記憶や理想を重ねて一つの「西郷像」を作り上げてきたことにあります。
だからこそ、2026年の今も西郷隆盛の本当の顔を知ろうとするなら、一枚の肖像画を正解と決めつけるのではなく、制作年代やモデル、関係者の証言を照らし合わせることが大切です。
写真が残らなかった英雄の顔。その空白こそが、西郷隆盛という人物を歴史の中で特別な存在にしているのかもしれません。 (出典: 西郷 隆盛 本当 の 顔(Yahoo!ニュース))