三澤興一の現在は巨人の国際部長!4球団の成績と米独立リーグ挑戦を徹底解説
2026年現在、元プロ野球投手の三澤興一は、読売ジャイアンツの国際部長として球団運営に携わっている。2025年11月1日付で国際部長に就任し、長年続けてきた投手コーチとしての活動から、新たな役割へと進んだ。現役時代は巨人、近鉄、再び巨人、ヤクルト、中日と渡り歩き、さらにアメリカの独立リーグにも挑戦した異色の経歴を持つ。
1974年6月8日生まれ、埼玉県出身。帝京高校から早稲田大学へ進み、1996年ドラフト3位で巨人に入団した。NPB通算296試合、28勝18敗6セーブ、防御率3.98という記録を残している。近鉄から巨人への異例の出戻りトレード、3度の戦力外通告、米独立リーグでの再挑戦など、その野球人生には多くの転機があった。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 現在:2025年11月1日付で巨人の国際部長に就任。2026年1月の取材記事でも同職として紹介されている。
- 現役時代:1996年ドラフト3位で巨人入り。近鉄、巨人、ヤクルト、中日を経験し、米独立リーグにも挑戦した。
- 通算成績:NPB通算296試合、28勝18敗6セーブ、防御率3.98。
- 引退後:2010年春に現役引退。スコアラーを経て2017年から巨人の投手コーチを務めた。
【2026年最新】三澤興一の現在は巨人の国際部長!プロフィールを紹介
三澤興一の現在を知るうえで、最も大きなニュースは巨人の国際部長への就任だ。
巨人は2025年10月31日、球団人事を発表。同年11月1日付で、それまで三軍投手チーフコーチを務めていた三澤興一が国際部長に就任した。スポーツニッポンなどの報道でも、この人事が伝えられている。
2026年1月28日公開のNumber Webのインタビュー記事でも、三澤は巨人の国際部長として紹介された。2026年度のNPB監督・コーチ一覧には投手コーチとして名前が掲載されておらず、指導現場から球団の国際部門へ役割を移したことが確認できる。
三澤興一の基本プロフィール
- 氏名:三澤興一(みさわ・こういち)
- 生年月日:1974年6月8日
- 年齢:52歳(2026年10月30日現在)
- 出身地:埼玉県
- 身長:177cm
- 体重:84kg
- 投打:右投右打
- ポジション:投手
- 出身高校:帝京高校
- 出身大学:早稲田大学
- ドラフト:1996年ドラフト3位(読売ジャイアンツ)
- NPB通算:296試合、28勝18敗6セーブ、防御率3.98
- 現在の肩書:読売ジャイアンツ国際部長
選手としてのキャリアだけでなく、引退後も巨人に長く在籍していることが特徴だ。現役時代に経験したトレードや戦力外通告、海外挑戦は、後に若手選手を指導する際の貴重な経験になった。
【経歴・年表】帝京高校から早稲田大学、1996年ドラフト3位で巨人へ
帝京高校時代は日本代表にも選ばれた実力派投手
三澤興一の野球人生は、埼玉県から東京の強豪校である帝京高校へ進学したところから本格的に動き出す。
高校時代は投手として頭角を現し、日本代表にも選出された経験を持つ。Number Webのインタビューでは、高校時代に日本代表に選ばれてロサンゼルスやハワイでホームステイした経験が、アメリカで野球をしたいという夢につながったことを振り返っている。
この海外経験は、後年の米独立リーグ挑戦にもつながる重要な原体験だった。
早稲田大学では通算31勝、アトランタ五輪にも出場
帝京高校卒業後は早稲田大学に進学。大学野球でも実力を発揮し、2年生からエースとして活躍した。
六大学野球リーグ戦では通算31勝を記録。さらに1996年のアトランタオリンピックにも出場し、日本代表の銀メダル獲得に貢献した。
大学野球での実績と国際大会での経験を備えた右腕として、プロ球団からも注目される存在になっていた。
1996年ドラフト3位で巨人に入団
1996年のドラフト会議で、三澤は読売ジャイアンツから3位指名を受けた。翌1997年にプロデビューを果たす。
当時の巨人は長嶋茂雄監督の第二次政権下。清原和博や松井秀喜らが注目を集める華やかなチームだった。
三澤は新人ながら一軍で35試合に登板。リリーフ投手として経験を積み、プロの世界でも通用する力を示した。
【年度別成績】巨人・近鉄・ヤクルトで残した投手記録を徹底比較
三澤興一のNPBでの実績を確認するには、日本野球機構(NPB)の個人年度別成績が基準になる。
通算成績は296試合登板、28勝18敗、6セーブ、防御率3.98、445投球回、306奪三振。先発を中心とする投手ではなく、リリーフを主戦場として複数の球団で起用された投手だった。
三澤興一の年度別投手成績
| 年度 | 所属球団 | 登板 | 勝敗 | セーブ | 防御率 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1997年 | 巨人 | 35 | 3勝4敗 | 2 | 4.55 |
| 1998年 | 巨人 | 43 | 3勝5敗 | 3 | 3.84 |
| 1999年 | 巨人 | 36 | 5勝3敗 | 0 | 3.97 |
| 2000年 | 巨人 | 41 | 1勝1敗 | 1 | 2.33 |
| 2001年 | 巨人 | 2 | 0勝1敗 | 0 | 18.00 |
| 2001年 | 近鉄 | 21 | 7勝0敗 | 0 | 4.01 |
| 2002年 | 近鉄 | 53 | 4勝2敗 | 0 | 4.22 |
| 2003年 | 近鉄 | 48 | 2勝2敗 | 0 | 3.38 |
| 2004年 | 巨人 | 15 | 3勝0敗 | 0 | 4.58 |
| 2005年 | ヤクルト | 2 | 0勝0敗 | 0 | 27.00 |
出典:日本野球機構の個人年度別成績。防御率は各年度の公式記録。
最も安定していたのは2000年の巨人時代
年度別成績で注目したいのは2000年だ。
この年は41試合に登板し、1勝1敗1セーブ、防御率2.33を記録。1997年のデビュー以降、最も低い防御率を残したシーズンだった。
1998年には43試合、1999年には36試合に登板しており、巨人時代の三澤は継続的に一軍リリーフ陣の一角を担っていた。
近鉄では2001年に7勝無敗を記録
近鉄移籍後の2001年は21試合に登板し、7勝0敗という成績を残した。2002年には自己最多となる53試合に登板。2003年も48試合に登板しており、近鉄時代は救援投手として一定の役割を果たしていた。
2003年の防御率は3.38。近鉄時代の3年間は、移籍によって出場機会を得て、再び一軍で存在感を示した時期だった。
ヤクルトと中日の成績には注意が必要
ヤクルトでは2005年に一軍2試合に登板。防御率は27.00だった。
その後、2006年にはヤクルト、2007年には中日に所属したが、NPB公式の個人年度別成績には2005年までの一軍登板記録が掲載されている。所属球団の経歴と一軍公式戦の登板記録は分けて理解する必要がある。
特に中日時代については、球団に所属した経歴がある一方、NPB公式年度別成績に一軍登板記録は掲載されていない。
【近鉄から巨人へ】異例の出戻りトレードと4球団を渡り歩いた理由
三澤興一の現役時代を語るうえで欠かせないのが、2001年と2003年に経験した2度のトレードだ。
2001年6月、巨人から近鉄へ移籍
最初のトレードは2001年6月。三澤は2対2の交換トレードで巨人から近鉄へ移籍した。
突然の移籍に対し、当初は巨人に必要とされなくなったのではないかという寂しさを感じていたという。
しかし、近鉄で一軍に昇格した際、当時の投手コーチだった故・小林繁からかけられた言葉が考え方を変えるきっかけになった。
「頑張れよ。お前を獲るの、大変だったんだぞ」
Number Webのインタビューで三澤は、この言葉によって、自分を必要としてくれる人がいたからトレードが成立したのだと受け止められるようになったと振り返っている。
移籍後初登板となった7月30日のロッテ戦では、1死満塁の場面を抑え、その後の味方の逆転によって勝利投手になった。新天地でいきなり結果を出し、本拠地のお立ち台にも上がっている。
この2001年、近鉄は12年ぶりのリーグ優勝を達成。三澤にとっても移籍後すぐに優勝を経験した印象深いシーズンになった。
2003年オフ、再び巨人へ戻る
近鉄で2002年に53試合登板を記録するなど、リリーフとして存在感を示していた三澤に、2003年オフ、再びトレードの話が浮上した。
2003年11月、新聞報道によって巨人への復帰話を知ったという。本人にとっても予想外の展開だった。
そして12月5日、巨人と近鉄から正式に交換トレードが発表された。
交換条件は、巨人の根市寛貴投手と金銭。三澤が再び巨人のユニフォームを着ることになった。
背景には、2004年から巨人を率いる堀内恒夫新監督の意向があった。堀内は三澤が巨人に入団した当時、投手コーチを務めており、中継ぎ投手としての経験やタフさを評価していたとNumber Webは伝えている。
復帰後は故障もあり、2004年に戦力外通告
古巣復帰は新たなチャンスだったが、結果は厳しいものになった。
2004年は15試合に登板して3勝を挙げたものの、故障の影響もあり、シーズン終了後に戦力外通告を受けた。
プロ8年目、30歳での通告だった。それでも三澤は現役続行を希望し、12球団合同トライアウトを受験する。
このように、三澤の経歴には単なる球団移籍ではなく、移籍先で結果を出し、再び古巣に戻り、そこでもう一度厳しい競争に直面するというドラマがあった。
【ヤクルト・中日・米独立リーグ】3度の戦力外から海外挑戦へ
巨人を離れた後も、三澤は投手としての現役生活を諦めなかった。
ヤクルトで2シーズン、中日でもプレー
2004年の戦力外通告後、合同トライアウトを経てヤクルトに入団した。
2005年から2006年まで在籍したが、一軍での登板は2005年の2試合にとどまった。2006年に再び戦力外通告を受けると、2度目のトライアウトを経て中日ドラゴンズへの入団を果たす。
しかし、2007年には中日からも戦力外通告を受けた。これで巨人、ヤクルト、中日で計3度の戦力外を経験したことになる。
NPBでは巨人、近鉄、ヤクルト、中日の4球団を経験した。移籍のたびに新しい環境へ適応しようとした姿勢は、三澤の選手人生を象徴している。
2007年に渡米、MLBを目指して米独立リーグへ
中日退団後、三澤が選んだ道はアメリカへの挑戦だった。
目標はメジャーリーグ。高校時代にアメリカを訪れた経験から、海外で野球をする夢を持ち続けていた。
最初はシカゴ・ホワイトソックスのマイナーキャンプに参加したが、キャンプ後半に契約を解除された。その後は代理人を付けず、自ら情報を集めて各球団のキャンプ地やトライアウトを訪問する生活が始まった。
2008年には、北米の独立リーグの一つであるノーザン・リーグに所属するゲーリー・サウスショア・レイルキャッツと契約した。
このチームでの成績は29試合登板、7勝1敗6セーブ、防御率1.69。NPB退団後も投手としての力を発揮した。
ドミニカ共和国やベネズエラでもプレー
米独立リーグで結果を残した後も、三澤はMLB球団との契約を目指してドミニカ共和国やベネズエラのウインターリーグに参加した。
2009年からはゴールデン・ベースボール・リーグのロングビーチ・アーマダと契約。ここでは、ロッテやニューヨーク・ヤンキースなどで活躍した伊良部秀輝ともチームメートになった。
NPBを離れても海外でプレーする道を探し続けたことは、三澤のキャリアにおける大きな特徴だ。
最終的にMLBでの選手契約には至らなかったが、独立リーグで実績を残し、異なる野球文化や環境を経験したことは、その後の指導者人生にもつながっている。
2010年春に現役引退
アメリカでの挑戦を経て、三澤は2010年春に現役を引退した。
NPBで4球団を経験し、さらにアメリカの独立リーグでもプレーしたキャリアは、当時としても珍しいものだった。
【引退後の指導歴】巨人の投手コーチから国際部長へ
現役引退後の三澤は、巨人に戻り、球団スタッフとして新たなキャリアを築いていく。
スコアラーを経て2017年に二軍投手コーチへ
2010年春の引退後、三澤は巨人のスコアラーを経験した。その後、2017年に二軍投手コーチに就任し、指導者としてのキャリアをスタートさせた。
自身が巨人、近鉄、ヤクルト、中日と複数の球団を経験してきたことは、選手の置かれた状況を理解するうえで強みになった。
一軍・三軍でも投手コーチを経験
2019年には一軍投手コーチへの配置転換が発表された。ファームで若手投手を見てきた経験を、一軍の投手起用にも生かす役割を担った。
その後も一軍、二軍、三軍で投手コーチを務め、2025年シーズンには三軍投手チーフコーチとして活動していた。
長期間にわたって巨人の投手育成に関わったことは、引退後のキャリアにおける大きな実績といえる。
2025年11月、巨人の国際部長に就任
2025年10月31日に発表された球団人事によって、三澤は同年11月1日付で国際部長に就任した。
現場で投手を指導する立場から、球団の国際部門を担うポストへの転身である。
2026年1月のNumber Webのインタビューでは、自身のトレードや移籍経験について語り、新しい球団に移る選手に対しても、自分の経験を伝えていることを明かした。
「自分は必要ないのではなく、新たな場所で求められているんだと思って頑張って欲しい」
これは、自身が近鉄へ移籍した際に小林繁からかけられた言葉や、その後の移籍経験を通して身につけた考え方でもある。
選手としての経験を、今度は球団の組織運営や国際部門の仕事に生かしていく。三澤にとって、国際部長への就任は現役引退後のキャリアにおける新しい転換点になった。
【プロの結論】三澤興一の野球人生から見える3つの特徴
三澤興一の経歴を振り返ると、単に複数球団でプレーした元投手というだけでは説明できない特徴が見えてくる。
1. 環境が変わっても結果を出す適応力
巨人から近鉄への移籍後、2001年には7勝無敗を記録。2002年には53試合に登板した。
球団が変わることで、起用方法やチーム内での立場は変化する。三澤は新しい環境で自分の役割を見つけ、リリーフ投手として再び実績を積み上げた。
2. 何度でも挑戦する継続力
三澤は3度の戦力外通告を受けながら、現役続行を目指した。日本での所属先を探すだけでなく、アメリカへ渡り、独立リーグやウインターリーグにも挑戦している。
特に、MLB球団との契約がない状態で渡米し、自らトライアウトを受けて所属先を探した経験は、強い意志がなければ続けられないものだった。
3. 選手時代の経験を次世代に伝える力
引退後はスコアラー、投手コーチを経験し、若手選手の育成に関わってきた。
自らトレードを経験したからこそ、新天地へ向かう選手の不安や戸惑いを理解できる。三澤が移籍する選手に対して「必要とされている場所で頑張ってほしい」という趣旨の言葉を伝えていることは、経験が指導者としての財産になっていることを示している。
2026年の国際部長就任も、これまでの野球人生で培った国内外の経験を球団の別の領域で生かす機会と捉えられる。
三澤興一に関するよくある質問(FAQ)
Q1:三澤興一は現在何をしている?
2025年11月1日付で読売ジャイアンツの国際部長に就任した。2026年1月のNumber Webの記事でも同職として紹介されている。
Q2:三澤興一の出身高校と大学は?
帝京高校から早稲田大学に進学した。早稲田大学では六大学野球リーグ戦通算31勝を記録し、アトランタオリンピックにも出場している。
Q3:三澤興一は何年のドラフトで巨人に入団した?
1996年ドラフト3位で読売ジャイアンツから指名された。プロデビューは1997年。
Q4:三澤興一のNPB通算成績は?
296試合登板、28勝18敗6セーブ、防御率3.98。445投球回、306奪三振を記録している。
Q5:三澤興一は近鉄から巨人に戻ったことがある?
ある。2001年6月に巨人から近鉄へ移籍し、2003年12月に根市寛貴投手と金銭による交換トレードで巨人に復帰した。
Q6:三澤興一は中日や米独立リーグでもプレーした?
中日には2007年に所属した。その後アメリカへ渡り、ノーザン・リーグやゴールデン・ベースボール・リーグなどの独立リーグでプレーした。NPBでの中日時代の一軍登板記録は公式年度別成績に掲載されていない。
Q7:三澤興一はいつ引退した?
2010年春に現役を引退した。その後は巨人のスコアラーを経て、2017年から投手コーチを務めた。
まとめ:三澤興一は選手・指導者を経て巨人の国際部門へ
三澤興一の野球人生は、帝京高校、早稲田大学を経て1996年ドラフト3位で巨人に入団したところから始まった。
現役時代は巨人、近鉄、再び巨人、ヤクルト、中日と複数球団を経験。近鉄から巨人への出戻りトレードや3度の戦力外通告、アメリカの独立リーグへの挑戦など、決して平坦ではないキャリアを歩んできた。
2010年春の引退後は巨人のスコアラー、二軍・一軍・三軍の投手コーチを歴任。2025年11月1日には国際部長に就任し、2026年は球団の国際部門で新しい役割を担っている。
三澤の経歴で特に注目したいのは、移籍や戦力外を単なる終わりにせず、新しい環境での挑戦につなげてきた点だ。現役時代に経験した苦労は、若い選手への助言や指導にも生かされている。
投手としての実績だけでなく、国内外の野球を経験した人物として、今後の巨人でどのような役割を果たしていくのか。国際部長としての活動にも注目が集まる。
主な根拠資料: 日本野球機構の個人年度別成績、Number Webの2026年1月の本人インタビュー、読売巨人軍の2025年球団人事に関する報道、週刊ベースボールONLINEの選手プロフィール。 (出典: 三澤 興 一(Yahoo!ニュース))